月影

日々の雑感

言葉は心を導く──真と仮に映る救いのかたち

親鸞の世界』(参考文献1)という本を読んでいたところ、興味深い記述がありましたのでご紹介します。一般に、法然上人は本願(第十八願)一つが重要だとされたのに対し、親鸞聖人は阿弥陀仏四十八願のうち八つの願が重要だと『教行信証』に記されたとのことです。そこで、その八願について調べてみました。

親鸞聖人は、阿弥陀仏法蔵菩薩であった時に立てられた四十八願を、衆生を救うための「真実の願」と「方便(ほうべん)の願」に分けられました。このうち、特に重要な八つの願を**「真仮八願(しんけはちがん)」**と呼びます。

簡単に言うと、「真実の願」は阿弥陀仏の究極的な救済の目的を示し、「方便の願」はその真実の願へ衆生を導くための手段や入口となる願です。

以下に、それぞれの願について、そしてなぜ「真」と「仮」に分けられたのかを解説します。

 

1.真実の願

 

親鸞聖人が「真実の願」として特に重要視されたのは、以下の二つの願です。

  • 第十八願(至心信楽の願ししんしんぎょうのがん)

    • 原文: 設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法

    • 意訳: たとえ私が仏になるとしても、あらゆる世界の衆生が、心から信じ楽(ねが)い、私の国に生まれたいと願って、わずか十回でも念仏を称えたにもかかわらず、もし往生できないようなら、私は仏の悟りを開くことはありません。ただし、五逆の罪を犯し、仏の正しい教えを謗る者だけは除きます。

    • 解説: これは阿弥陀仏の本願の中心であり、私たちが救われるための最も重要な道筋を示しています。親鸞聖人はこの願を「本願」とも呼び、真実の報土(真実の浄土)へ往生するための願とされました。

  • 第十一願(必至滅度の願ひっしめつどのがん)

    • 原文: 設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚

    • 意訳: たとえ私が仏になるとしても、私の国に生まれた人々が、必ず悟りの位(定聚)に入り、涅槃(最高の悟り)に至ることができないようなら、私は仏の悟りを開くことはありません。

    • 解説: 阿弥陀仏の国に往生した後の救済の確実性を示すもので、第十八願と一体となって真実の救いを明らかにします。

 

2.方便の願(仮願)

 

方便の願は、衆生が真実の願である第十八願に導かれるための、いわば「仮の門」や「手だて」としての役割を持つ願です。

  • 第十二願(光明無量の願こうみょうむりょうのがん)

    • 原文: 設我得仏 光明有能限量 下至不照百千億那由他諸仏国者 不取正覚

    • 意訳: 私の放つ光(智慧)が限りあるもので、数えきれないほどの仏がたの国々を照らせないようなら、私は仏の悟りを開きません。

    • 解説: 阿弥陀仏の光明は智慧の象徴であり、衆生の無明の闇を破り、すべての人を分け隔てなく救済へと導く力を示します。

  • 第十三願(寿命無量の願じゅみょうむりょうのがん)

    • 原文: 設我得仏 寿命有能限量 下至百千億那由他劫者 不取正覚

    • 意訳: 私の寿命が限りあるもので、数えきれないほどの長い時間(百千億那由他劫)に至らないようなら、私は仏の悟りを開きません。

    • 解説: 阿弥陀仏の寿命(慈悲)が無限であることを示し、いついかなる時代の衆生をも見捨てることなく、永遠に救い続ける仏であることを表しています。

  • 第十九願(至心発願の願ししんほつがんのがん)

    • 原文: 設我得仏 十方衆生菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与大衆圍繞 現其人前者 不取正覚

    • 意訳: 様々な善い行いを積み、仏道を求める心(菩提心)を起こして、私の国に生まれたいと心から願う者が、命を終える時に、私が多くの聖者たちと共にその人の前に現れないようなら、私は仏の悟りを開きません。

    • 解説: 自らの善行によって往生を目指す人々に対する方便の願とされます。ただし、その「浄土に生まれたい」と願う心さえも、阿弥陀仏の本願力によって起こさせていただくものと示されます。

  • 第二十願(至心回向の願ししんえこうのがん)

    • 原文: 設我得仏 十方衆生 聞我名号 繋念我国 植諸徳本 至心回向 欲生我国 不果遂者 不取正覚

    • 意訳: 私の名号(南無阿弥陀仏)を聞いて、私の国を心に念じ、様々な功徳を積み、その功徳をもって私の国に生まれたいと心から願う者が、もしその願いを遂げられないようなら、私は仏の悟りを開きません。

    • 解説: これも自力の念仏によって往生しようとする人々に対する方便の願です。しかし、その「回向(功徳を振り向ける心)」もまた阿弥陀仏の本願力によるものであり、浄土を願う心は自力ではなく仏の心であると示唆されます。

  • 第十七願(諸仏称名の願しょぶつしょうみょうのがん)

    • 原文: 設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚

    • 意訳: あらゆる世界の数えきれないほどの仏がたが、皆ことごとく私の名(名号)を褒め称えないようなら、私は仏の悟りを開きません。

    • 解説: 阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」という名号となって人々の心に届き、浄土へ導こうとする「往相回向」の願です。これにより、私たちは阿弥陀仏の存在とその救いを知ることができます。

  • 第二十二願(還相回向の願げんそうえこうのがん)

    • 原文: 設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処 (中略) 若不爾者 不取正覚

    • 意訳: 私の国に往生した者が、仏の悟りを得た後、再びこの迷いの世界に戻ってきて、苦しむ人々を救い導く働きができないようなら、私は仏の悟りを開きません。

    • 解説: 浄土に往生して終わりではなく、仏となって還り来たり、他者を救う存在となることを誓った願です。この還相の働きもまた、阿弥陀仏の本願力によるものです。

 

なぜ「真」と「仮」に分けたのか?

 

親鸞聖人が四十八願を「真」と「仮」に分けられた主な理由は以下の通りです。

  1. 阿弥陀仏の真意を明らかにするため 第十八願に示される、凡夫が凡夫のままで救われる「絶対他力」こそが、阿弥陀仏の救済の究極の目的であることを明確にするためです。

  2. 衆生の多様な機根(能力や性質)に応じるため 誰もがすぐに絶対他力の教えを受け入れられるわけではありません。そのため、様々な機根の衆生を段階的に真実の教えへ導く「方便」の願が必要であると考えられました。

  3. 自力の誤りを誡めるため 第十九願や第二十願のような自力的な修行による往生は、あくまで真実への入口(方便)です。そこに留まるのではなく、最終的には第十八願の他力の信心に帰すべきことを示すためです。ただし、その自力的な行いと見えるものさえも、根底には阿弥陀仏の本願力が働いていると示唆されています。


参考文献1

『親鸞の世界』 鈴木大拙、金子大榮、曽我量深、西谷啓治 (著)

同上 Kindle版


今日の一句

真と仮で 全てを照らし 救い行く 南無阿弥陀仏 言葉は心