月影

日々の雑感

名は仏なり ― 阿弥陀仏が言葉として生きる意味

大嶺顯師は、「第十七願は、法蔵菩薩が自分は南無阿弥陀仏という名になろうという願です。」と述べています(参考文献1、2)。親鸞聖人は、この願が「往相回向の願である」とも述べています。そこで、言葉(名)として生きる仏の本質と、その意味について調べてみました。曽我量深師や鈴木大拙師も、この願が重要であると述べています。 

 

『大無量寿経』によれば第十七願は次のような内容です:

もし我、仏を得んに、十方の無量の諸仏、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。

( 阿弥陀仏法蔵菩薩)は、他のすべての仏たちが自分の名を称えることがなければ、仏にならないと誓った)

 

親鸞の解釈:なぜ「往相回向の願」としたのか】

1. 諸仏称名=名号が真実である証明

諸仏が阿弥陀仏の名を称えるということは、「この名号が真実である」と証明しているということ。
親鸞は、この願によって、名号(南無阿弥陀仏)が虚偽ではなく、真実の仏智であることが保証されると理解した。

 

2. 衆生の信を生じさせるはたらき=信心の因

十方諸仏が阿弥陀仏の名号を称え、その功徳を讃えることで、衆生がその名号を信じ、称えるようになる。
親鸞は、これによって衆生の**「信心」が起こる因縁**が整うと捉えた。

 

3. 回向の本質:仏から衆生へのはたらき

親鸞の思想では、「回向」とは、仏が衆生に信心と行(名号)を与えること。
第十七願によって**「諸仏が称える名号」が衆生に届くことで、仏の本願(他力)が衆生に回向される**。
よってこの願は、阿弥陀仏の本願が衆生に届き、浄土へ「往く相」(往相)を与える願と理解される。

 

親鸞聖人の次の和讃は、阿弥陀仏の本願成就によって私たちの救いが可能となること、そしてその救いが「往相」と「還相」という二つの回向のはたらきによって実現していることを明らかにします。

 

弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり

これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ

阿弥陀仏の回向が成就して、浄土に往くはたらき(往相)と、浄土から還って人々を救うはたらき(還相)の二つがある。これらの回向のはたらきによってこそ、私たちは信心(心)も行(念仏)もいただくことができるのである。)

この和讃は、主に第18願(本願)を中心としつつも、第17願の成就によって阿弥陀仏が名号としてこの世にあらわれているという真意を含んでいると読むことができます。つまり、阿弥陀仏は単に遠くにある存在ではなく、「南無阿弥陀仏」という**名(みょうごう)**そのものとなって衆生に届いているのです。

 

■ 第17願の成就

第17願が成就したことは次の成就文によって語られています。

 

十方恒沙諸仏、皆共稱讃無量壽佛威神功德。

(十方(じっぽう:あらゆる世界)の無数の仏たちは、みなそろって、無量寿仏(阿弥陀仏)の偉大な威徳と功徳とを称えたたえている)

 

この成就文により、阿弥陀仏が仏となった今、諸仏がその名号を実際に称えている=名号が成り立ったことが明らかになります。名号とは「南無阿弥陀仏」の六字であり、それは仏そのものの「はたらき」と「徳」が一体化した姿です。親鸞聖人はこれを**「名即実体(名はすなわち仏そのもの)」**と理解し、名号に帰命することが仏に救われる道であると説きました。

 

阿弥陀仏=名号であるという主張の根拠

名号は「称名」されることにより衆生の信心の因縁となる。
名号は諸仏によって称賛され、私たちに届く「仏のすすめ(勧化)」の媒体である。
仏が名としてあらわれるという形式は、第17願にしか見られない特徴であり、「仏の成就=名の成就」と見ることができる。

こうした理解により、阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」という名号として、この世に具体的にはたらきかけている仏であると結論づけることができます。

 

親鸞聖人は、教行信証(行巻)に以下のように書いています。

「名号は、すなわちこれ如来の行であって、如来の徳なり。如来の名号はすなわちこれ如来なり。」
(「南無阿弥陀仏という名号」は、阿弥陀如来の行(=救済の実践)、徳(=功徳)、そして如来そのものであると明言されています。つまり、「称える名」が「仏」として私に届いているという意味です。)

 

■ 言葉の力:宗教と哲学の交差点

このように、言葉=名号が仏そのものとなるという思想は、仏教において極めて特異かつ重要な教えです。そして「言葉」の根源的な力については、東西の哲学者たちもその重要性を繰り返し語ってきました。

 

たとえば、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーはこう述べています。

言葉は存在の家である(Die Sprache ist das Haus des Seins)」

この言葉は、言葉が単なる表現手段ではなく、存在そのものの在りかを示すものだという考えを表します。まさに「南無阿弥陀仏」という名が仏の実体であるという浄土教の理解と通底しています。

 

また、仏教学者の梶山雄一は「仏教は言葉によって人を救う宗教である」と述べました。南無阿弥陀仏という名号は、仏教における「言葉の力」の頂点とも言えるものです。ここでは仏の存在そのものが名号となり、念仏されることで衆生に届き、信心が生まれ、救いが現実となるのです。

 

キリスト教の聖書にも似たような記述があります。(ヨハネ福音書の冒頭,参考文献3) 

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。

 

■ 結論

第17願の成就によって、阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」という名号そのものとして衆生にあらわれました。この名号を念ずることで衆生阿弥陀仏と直接出遇い、信心を得て往生が可能となります。

 

したがって、阿弥陀仏は理念上の存在ではなく、「言葉」として生き、働く仏であるといえます。その根拠は第17願の誓いとその成就、そして人間の根源に働きかける「名」の力にあります。名号はまさに「存在する仏」であり、それを称えることは仏と一体になる道なのです。

 

参考文献

1. 

amzn.to

2. 新装版 親鸞のコスモロジー

3.  口語訳 新約聖書 Kindle版 amazon

 

今日の一句

阿弥陀仏名号となり我ととも ほとけを信じまかせて生きる