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日々の雑感

永遠の救済者「還相回向の菩薩」― その大いなる慈悲と利他の精神

「菩薩は従果向因といいまして、仏果の位から菩薩の因位の位に下ってきた。還相回向の菩薩は、仏になる必要はない。永遠に菩薩であります。」(曽我量深)

 

親鸞の世界という本の中の言葉です。今回は、この還相回向の菩薩という言葉について調べてみました。この文章は、仏教の中でも特に**大乗仏教(菩薩道)**の教えに関わる深い思想を表しています。観音菩薩地蔵菩薩を信仰してる方は多いでしょう。

🔹 原文の構造と用語解説

「菩薩は従果向因(じゅうかこういん)といいまして」

従果向因とは、「結果(果)から原因(因)へ向かう」という意味です。
一般には、「因(修行)→果(仏の悟り)」ですが、菩薩はすでに仏果(仏の悟り)を得ている存在が、救済のために、あえて「修行者=菩薩」という立場に戻ってこの世に現れる、つまり、悟り(果)から修行(因)へと下るのです。これは、衆生を救うための慈悲による自己犠牲的行為とされます。

 

「仏果の位から菩薩の因位の位に下ってきた」

仏の境地(完全な悟り)に達しているにもかかわらず、敢えてこの世に現れて修行者(菩薩)として振る舞い、衆生を導く存在である、ということです。

 

還相回向(げんそうえこう)の菩薩」

回向とは、自分の修行の成果を他人に回すこと(利益を与えること)。還相とは、「悟りを得た後に衆生を救うためにこの世に戻ってくること」。つまり、**「還相回向の菩薩」**とは、

自分の悟りを完成した後も、他人を救うために現世にとどまり続ける菩薩のことです。阿弥陀仏の浄土に生まれると仏になります。その浄土から再びこの世の人を助けにきた菩薩のことです。

親鸞聖人の次のような和讃があります。

 

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき

功徳の宝海みちみちて 還相回向をえしめたまふ

 

現代語訳(口語):

 阿弥陀仏の本願力に出遇えば、人生を無駄に過ごす人は誰一人いません。功徳の宝の海が満ちあふれ、人々を救い導く力(還相回向)を私たちに与えてくださいます。

 

解釈

この和讃は親鸞聖人の『浄土和讃』にあるもので、阿弥陀仏の本願の力によって、往生し、そして還って衆生を救う菩薩になるという浄土教の核心を端的に表した名句です。

【1】本願力にあひぬれば

阿弥陀仏の本願(=すべての衆生を救うという願い)の力に出会えば」、

つまり、阿弥陀仏を信じ、まかして、阿弥陀仏のはたらきを感じれば、

【2】むなしくすぐるひとぞなき

「空しく過ぎていく人はいない」=誰も漏れなく救われる。

親鸞は、すべての人間が煩悩具足の凡夫でありながらも、阿弥陀仏の本願を信じることで必ず救われると説いた。

【3】功徳の宝海みちみちて

「功徳の宝の海が満ちて」=阿弥陀仏の功徳(悟りのはたらき)が、浄土に満ち満ちている。

→ 信心を得た者は、その功徳の海に抱かれるようにして浄土に生まれ、仏の智慧と慈悲を得る。

【4】還相回向をえしめたまふ

還相回向(げんそうえこう)を与えてくださる」=浄土に往生した者は、他者を救うためにこの世に還ってくる。

→ 浄土に生まれたあと、自利(自分の悟り)だけで終わらず、利他(他人を救う)を実践する菩薩となる。これが「還相の菩薩」です。

 

「仏になる必要はない。永遠に菩薩であります。」

この部分はやや宗派的な解釈が入りますが、
一部の大乗仏教(特に法華経や華厳思想)では、「仏になる」というゴールよりも、永遠に菩薩として衆生救済に携わること自体が最高の存在意義
と考える立場があります。つまり、「仏」になることが目的ではなく、常に他者のために活動する存在としての「菩薩」であり続けることが尊い
と説いているのです。曽我量深師は、法華経など他の仏典にも造詣が深かったようです。

 

注意が必要なのは、私たちが生きているうちに、「還相菩薩としての働き」をするというよりは、阿弥陀仏を信じ、まかせて安心を得ているようすを見て、周りの人が阿弥陀仏を信じるようになるということです。親鸞聖人自身も、自らの信心が人に伝わっていくことを「自然(じねん)」のはたらきとして受け止めています。

 

 往相は、浄土に行くこと、還相は、浄土から娑婆世界(今の現実世界)に帰ることです。願作仏心(がんさぶっしん)は、往相、 度衆生心(どしゅうじょうしん)は還相のことです。親鸞聖人は願作仏心と度衆生心は「阿弥陀仏の本願」の中にすでに含まれているとされました。道元禅師は、 度衆生心を非常に重視していました。

 

今日の一句

還相の 菩薩来たりて 地に住みて 南無阿弥陀仏 永く伝える