月影

日々の雑感

蓮如上人の信仰の核心を読む:『御一代記聞書』から学ぶ無我と信心

形式や知識ではなく「まことの信心」を――蓮如上人の嘆きと教え

蓮如上人御一代記聞書』を読んでいると、蓮如上人が生涯をかけて伝えようとした「他力の信心」とは何かが、じわじわと心に迫ってきます。
特に晩年、蓮如上人が深く嘆いていたのは、「信心を得る人が少なくなっている」という現実でした。その心情を象徴するような一首の和歌が残されています。

皆ひとの まことの信は さらになし ものしりがほの 風情にて

現代語訳

「今の人々には、真実の信心がまったく見られない。ただ、物知り顔でそれらしい様子をしているだけである。」

ここで蓮如上人が指摘しているのは、信心の形骸化です。仏法の話を知識として語る者は多いが、実際に「仏にまかせきった信」を得ている者はほとんどいない。口先や学識で信仰を語る人々の「ものしりがほ」は、真の念仏の道を踏み外している、という厳しい批判がにじんでいます。

これは現代にも通じる問題でしょう。宗教的言葉や仏教的表現に親しんでいても、果たして「我が身をまかせる信」がそこにあるか――蓮如上人のこの一首は、今なお私たちに鋭く問いかけてきます。

「まかせよ」と仰せられた仏の心に応えること

また、同書には、法性という人物が蓮如上人に次のように問いかけた場面もあります。

「ただ仰せのままに浄土に往生させてくださいと弥陀を信じておまかせするだけで、往生はたしかに定まると思っておりますが、これでよろしいでしょうか」

この問いは、多くの念仏者が心に抱える問いでもあります。そんな素朴な問いかけに対して、蓮如上人は次のように答えています。

阿弥陀如来が、我を信じてまかせよと教えてくださったのである」

ここに、「他力の信仰」の真髄があります。
「信心」とは、自分の努力や計らいを手放して、阿弥陀仏の本願にすべてをまかせること。まさに「南無阿弥陀仏」と称えるその声に、「どうか救いたまえ」という願いと、「おまかせします」という信がこめられているのです。

無我――信の根底にある仏教の教え

蓮如上人はさらに、仏教の基本に立ち返るようにも語っている

「概して人には、他人に負けたくないと思う心がある。世間ではこの心によって懸命に学び、物事に熟達するのである。だが、仏法では無我が説かれるからには、われこそがという思いもなく、人に負けて、信心を荷もつのである。正しい道理を心得て、我執を退けるのは、仏のお慈悲のはたらきであると、蓮如上人は仰せになりました。」(蓮如上人御一代記聞書より)


無我
私たちは、我(魂)、万物の実体であると(一)、支配者である(二)、すべてである(三)等、そのような実体的な存在とはどのような実体的な存在であるかという自我説を否定する概念である。これによって自己に固執することをやめる教えとして無我が説かれている。」(蓮如上人御一代記聞書下書きより)

 

これは浄土真宗に限らず、仏教の根幹ともいえる「無我」の教えです。
「自分こそが救われるにふさわしい」「私はこんなに修行をしたのだから」――こうした*我執(がしゅう)を、阿弥陀仏の救いは超えていくのです。
自我を捨て、「私のことは仏さまにおまかせします」とまかせきる。それが「信心決定(しんじんけつじょう)」、つまり、揺るがぬ信の確立なのです。


結びに――蓮如の言葉が響く時代に

現代は、情報や知識が氾濫し、宗教的な言葉も手軽に得られる時代です。しかし、蓮如上人が憂いたように、「信心を知識として語る人」はいても、「仏にすべてをまかせきった人」は少ないかもしれません。

真の信とは、自分を頼まず、仏を信じてまかせること
そしてその信は、決して難しい理論や知識からではなく、仏の「我にまかせよ」という呼び声に、心から応えるところに生まれるのです。

蓮如上人の言葉は、五百年を越えて、今も私たちに語りかけています。
「あなたは本当に、仏にまかせているか?」と。

 

参考文献

蓮如上人御一代記聞書 (現代語訳) 本願寺出版

 

今日の一句

阿弥陀仏信じてまかせ 勅命は我が身になりて機法一体