蓮如上人御一代記聞書 本 (36)から、蓮如上人が、親鸞聖人の書いた念仏に関する和讃について述べられたところを引用して紹介します。
『正像末和讃に、
真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる
とある。。弥陀におまかせする信心も、また、尊いことだ、ありがたいことだと喜んで、念仏する心も、すべて弥陀よりお与えくださるのであるから、わたしたちが、ああしようとかこうしようとかはからって念仏するのは自力であり、だから退けられるのである』と蓮如上人は仰せになりました。
和讃現代語訳
まことの信心を得た人が称える念仏(南無阿弥陀仏)は、阿弥陀如来が私たちに回し与えてくださった(仏になるための)行(はたらきそのもの)です。
それゆえに、法然上人は阿弥陀如来の回向によらない(自分の力でどうにかしようとする)自力の念仏は「不回向」(ふえこう)と呼ばれて、真実の信心からは遠ざけられるのです。
解釈
この和讃は、浄土真宗における「他力本願」の教えの中核をなす考え方を表現しています。
* 真実信心の称名(しんじつしんじんのしょうみょう): これは、阿弥陀如来の救いを疑いなく信じる「真実の信心」を得た人が称える念仏(南無阿弥陀仏)のことです。単に口で念仏を唱えるだけでなく、阿弥陀如来にすべてをおまかせする心が伴った念仏を指します。
* 弥陀回向の法なれば(みだえこうのほとなれば): 「弥陀回向」とは、阿弥陀如来が私たち凡夫を必ず救おうと願い、その功徳や力を私たちに回し与えてくださる(回向)はたらきのことです。したがって、「真実信心の称名」は、私たちが自力で生み出したものではなく、阿弥陀如来の慈悲の光によって与えられたもの、つまり「弥陀回向の法」そのものなのです。
* 不回向となづけてぞ(ふえこうとなづけてぞ): 「不回向」とは、阿弥陀如来の回向を頼らず、自分の力(自力)で悟りを得ようとする考え方や行いを指します。
* 自力の称念きらはるる(じりきのしょうねんきらはるる): いろいろはからって行う自力の念仏は、真実の信心からは遠ざけられ、避けられるべきであると説いています。なぜなら、自力では煩悩を断ち切ることができず、真の救いに至ることができないと考えるからです。
「はからい」という言葉は仏教では重要です。 法然上人は、念仏にはからいはいらないとされてあります。また、親鸞聖人も歎異抄の第10章に以下のように記されています。「 念仏は無義をもつて義とす。不可称不可説不思議のゆゑにと仰せ候ひき」(念仏は、人間の思慮分別や理屈といった意味づけ(義)を離れたところに、真実の意味(義)があるのです。それは、言葉で言い表すことも、心で考え及ぶこともできない、不思議なはたらきによるものだと、法然上人はおっしゃいました)。この無義が、はからいなしという意味です。
はからいとは、知識から思慮分別や良い悪いと考える人間の心の働きのことです。そう言うはからいを持って念仏するのを自力の念仏としています。念仏は、阿弥陀如来より与えられた(回向された)ものですから、ただありがたくいただき感謝しながら念仏するのが良いとのことです。
生活していて、ふっと念仏が湧いてくる時がありますが、それをはからいなしと指しているのでしょう。
この和讃が伝えること
この和讃は、私たちが救われる道は、自分の力によるのではなく、阿弥陀如来の絶対的な慈悲の力、すなわち他力によるものであると明確に示しています。真実の信心を得た人の念仏は、その阿弥陀如来の救いの働きそのものです。阿弥陀如来の他力を受け取る感受性が大事です。
参考文献
今日の一句
不意に沸く 南無阿弥陀仏 胸熱し 理由などなき 回向なるらし