室町時代、京都では二人の高名な僧侶が活躍していました。禅宗の一休宗純と、浄土真宗の蓮如です。この二人は異なる宗派に属しながらも交流があり、和歌を通じて深い思索の対話を行っていたことが知られています。
特に興味深いのは、阿弥陀仏の慈悲についての二人の和歌の応酬です。まず一休は次のような和歌を詠みました。
訳
「阿弥陀仏には本当の慈悲はないのだ。ただ、阿弥陀仏を信じて頼る人だけを助ける。」
解釈
この短歌は、阿弥陀仏がすべての人を無条件で救うという教えに対して疑問を投げかけています。一休は、阿弥陀仏の慈悲が「限定的」ではないかと皮肉を込めて述べています。つまり、「阿弥陀仏の慈悲が本物であるなら、信じるかどうかに関わらず、すべての人を平等に救うべきではないか?」という批判です。私も以前同じようなことを思っていました。
「まことの慈悲」とは何かを問うています。本当の慈悲であれば、条件をつけることなく、すべての衆生を救済するものではないだろうか、という問題提起です。
「たのむ衆生のみぞ助ける」は、浄土宗や浄土真宗の教えで阿弥陀仏への信仰(たのむ心)が救済の条件とされることを指しています。一休は、こうした条件が慈悲の本質と矛盾するのではないかと考えた可能性があります。
禅宗では「自力」を重んじ、自らの座禅などの修行や悟りによって解脱を目指します。一休は、「他力本願」に頼る信仰に対して、禅の立場から疑問を呈したのでしょう。
これに対して蓮如は、次のように応えています。
阿弥陀にはへだつる心なけれども 蓋ある水に月は宿らじ
訳
「阿弥陀仏には、私たちと隔てるような心はないけれども、心に蓋(ふた)をしたままでは、その慈悲(光)が映ることはない。」
解釈
この短歌は、阿弥陀仏の無条件の慈悲と、それを受け入れる人間の心の状態について語っています。蓮如の歌は二つの重要な点を示しています。第一に、阿弥陀仏には人々を差別したり遠ざけたりする心が一切なく、誰にでも等しく慈悲を注ぐという点です。第二に、その慈悲を受け取れないのは、私たち自身の心の問題だという指摘です。
「蓋ある水に 月は宿らじ」の部分では、阿弥陀仏の慈悲が誰にでも届くにもかかわらず、それを受け取れないのは、私たち自身の心に問題があることを示しています。桶の水に月は映るけれど、桶に蓋をしてると月は映ることができません。ここで「蓋」とは、傲慢や疑い、執着、無明(無知)など、心を閉ざすものを象徴しています。このような心の状態では、阿弥陀仏の慈悲の光(月)が映ることはない、という比喩です。
この返歌の背景には、法然上人の有名な歌があります。
月影の至らぬ里はなけれども 眺める人の心にぞ住む
「月の光が届かない里などどこにもありません。 ただ、その月を見る人の心の中に(月が)宿るのです」
「月」は阿弥陀仏の慈悲を象徴しており、その慈悲は平等にすべての人に注がれているが、慈悲を受け取れるかどうかは、人の心の在り方によって決まります。
【人物紹介】
一休宗純(1394年~1481年)
- 京都で誕生。後小松天皇の子という説がある
- 6歳で安国寺に入門、周建の名を受ける
- 17歳で謙翁宗為に師事するが、師の死後に自殺未遂を経験
- その後、大徳寺の華叟宗曇に師事し、道号「一休」を授かる
- 1420年、カラスの声をきっかけに大悟
- 1474年、後土御門天皇の勅命で大徳寺住持となる
- 晩年は京田辺市の酬恩庵で過ごし、87歳で入寂
蓮如(1415年~1499年)
- 浄土真宗中興の祖、本願寺第8世住職
- 9歳で出家し本願寺に入る
- 衰退していた本願寺の再興に尽力
- 御文章を通じて阿弥陀仏の教えを広める
- 越前吉崎御坊を拠点に布教活動を展開
- 晩年、京都山科に本願寺を再建
- 85歳で入寂。27人の子女が布教活動を継承
この二人の高僧による和歌の応酬は、仏教における「慈悲」の本質について、異なる立場から深く考察した貴重な対話といえるでしょう。
今日の一句
春近し新天地ゆめ部屋を掃く思い出こもり手は止まりつつ