なぜ武士を捨てたのか? 松尾芭蕉と西行、桜の名歌に隠された“人生の決断”
日本を代表する二人の偉大な歌人に、ある共通点があるのをご存知でしょうか。それは、二人とも元々は「武士」であったということです。
西行は、将来を嘱望されたエリート武士の身分を捨てて出家しました。その理由は、一説には高貴な女性への叶わぬ恋が原因だったと言われています。
では、松尾芭蕉が武士を辞めた理由は何だったのでしょうか?
「俳句が好きだったから」――そう単純化されがちですが、事実はもっと複雑で、壮絶です。そこには、彼の世界のすべてが崩壊するという、決定的な出来事がありました。
この記事では、残された資料を手がかりに、芭蕉の「謎」に満ちた転身の真相を追います。その先に見えてくるのは、桜の花言葉『精神の美』に込められた、日本人の心の奥底に流れる、壮絶で美しい生き方の哲学です。
第一章:世界の崩壊 ― なぜ芭蕉は武士を辞めたのか
安定した身分を捨て、明日をも知れぬ歌の道へ。その決断は、積極的な選択というより、すべてを失った場所から始まる、苦難の旅立ちでした。
情熱に生きた歌人、西行の場合
西行(俗名:佐藤義清)は、鳥羽上皇に仕えるエリート武士でしたが、23歳の若さで突如出家します。有名な理由が、身分違いの女性への恋。叶わぬと知る恋に身を焦がし、武士としての俗世を捨て、仏道と和歌の道を選んだのです。彼の人生は、情熱的な「選択」の物語でした。以下の記事をご覧ください。
【西行の恋の謎】待賢門院璋子と堀河は別人だった!混同されがちな二人の関係を徹底解説 - 月影
すべてを失った男、芭蕉の場合
一方、伊賀の藤堂家に仕える下級武士だった松尾芭蕉。彼が武士を辞めた直接的な引き金は、主君であり、無二の親友であった藤堂良忠(俳号・蝉吟)の早すぎる死でした。
良忠は芭蕉の2歳年上。二人は単なる主従ではなく、共に俳諧を学び、京の巨匠・北村季吟に師事するほどの「文学のパートナー」でした。良忠の庇護のもと、芭蕉の才能は開花します。この時期の芭蕉にとって、俳諧は武士の務めと対立するものではなく、むしろその務めの一部であり、彼の世界そのものでした。
しかし1666年、芭蕉23歳の時、良忠が25歳の若さで急逝。
これは単なる失職や悲しみを意味しませんでした。彼の才能を唯一理解し、引き上げてくれた庇護者を失い、俳諧という共通言語で結ばれた世界は完全に消滅したのです。それは「世界の崩壊」であり、「アイデンティティの喪失」でした。
ある研究者が喝破したように、「彼は武士の世界を自ら去ったのではない。彼が知っていた世界が、彼のもとから去ってしまったのだ」。俳諧への情熱を共有しない新たな主君のもとで平凡な務めを続ける道は、彼には残されていませんでした。
第二章:師の足跡を追って ― 西行という「道標」
拠り所を失った芭蕉は、江戸へ出ます。しかし生活は厳しく、一時期は神田上水の水道工事の事務役などで糊口をしのぎました。そんな彼が、自らの根無し草の人生に意味を見出すために見出した光が、西行でした。
芭蕉は、西行を自らの人生の「原型(ロールモデル)」と見なします。
古人も多く旅に死せるあり
この一文に象徴されるように、芭蕉は、武士の身分を捨て、歌と仏道のために諸国を巡った西行の姿に、自らの「漂泊の人生」を重ね合わせました。彼の旅は、西行の精神を追体験する「目的ある巡礼」へと昇華されます。
芋洗ふ女 西行ならば歌よまむ
日常の風景に詩を見出す西行の「心」を自らも得ようとし、芭蕉は西行の足跡を辿りました。西行は、社会の枠組みの外で生きる芭蕉の人生を肯定し、その道筋を照らす、精神的な道標となったのです。
第三章:筆を刀に変えて ― 俳諧という名の「武士道」
驚くべきことに、芭蕉は武士を辞めた後も、私信では一人称「拙者」を使い続けました。資料は「意識としては生涯武士だったと言ってよい」と記します。彼は武士の身分を捨てても、その精神(矜持)を捨てることはありませんでした。
彼は、その武士の精神を、自らが切り開く「俳諧」の世界に注ぎ込みます。
芭蕉は、俳諧を単なる言葉遊びから、精神修養を伴う「道」へと高めようとしました。表面的な技巧を退け、対象と一体化する「風雅の誠」を説きます。その厳格な姿勢は、まさに武士のそれでした。
彼は刀を筆に持ち替えたのではありません。彼は筆を刀に変えたのです。 武士の規律と哲学をもって、俳諧という新たな武芸を創始し、自らはその道を極める宗匠となったのでした。
最終章:運命の受容 ― 桜に見た『精神の美』
さまざまな こと思ひ出す 桜かな
願はくは 花の下にて 春死なむ
西行が桜に究極の「死生観」を見たのに対し、芭蕉は桜に自らの「記憶」を重ねました。ここでの「さまざまなこと」とは、失われた友・良忠との日々、世界の崩壊、江戸での苦闘、そして再生への道のり――彼の全人生が込められているのです。
そして晩年、芭蕉は自らの人生をこう振り返っています。
武家奉公も、仏門に入ることも叶わず、「つひに無能無芸にして、ただ此の一筋につながる」と。
これは、俳諧の道を選び取ったという勝利宣言ではありません。他の道が閉ざされた末にたどり着いた運命を、静かに受け入れる言葉です。
この世のあらゆるものは移り変わる(諸行無常)。その真理を、芭蕉は自らの人生で体現しました。彼は運命に抗うのではなく、それを受け入れ、残された「この一筋」に武士の誠を尽くしたのです。
桜の花言葉は『精神の美』。
やがて散る運命を受け入れ、今この一瞬を精一杯咲き誇る桜の姿。そして、世界の崩壊という絶望から立ち上がり、自らの運命を受け入れ、筆という刀で道を切り開いた芭蕉の生き様。
その両方に通じる、「まことの心の美しさ」を、この花言葉は示しているのではないでしょうか。
次にあなたが桜を見上げる時、その花びらには、1000年以上前から続く、日本人の魂の記憶が映っているのかもしれません。