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親鸞聖人の人物像|恵信尼や法然との関係から見る「慈悲」と「厳しさ」

親鸞聖人の人物像:周囲との関わりから見る慈悲と厳しさ

親鸞聖人(1173-1262)は、鎌倉時代浄土真宗を開いた宗祖として知られています。その教えは多くの人々に影響を与えましたが、彼自身はどのような人物だったのでしょうか。ここでは、妻・恵信尼や弟子たち、そして師である法然聖人との関わりを通して、親鸞聖人の多面的な人物像に迫ります。

穏やかさと慈悲深さ

観音菩薩の化身(妻・恵信尼の夢)

妻である恵信尼は、夢のお告げから親鸞聖人を「観音菩薩の化身」であると深く信じていました。これは、夫への深い尊敬の念と、親鸞聖人が持つ慈悲深さを象徴する逸話として非常に有名です。『恵信尼消息』には、その夢の内容と、親鸞聖人への思慕が記されています。

「あれ​は観音にて​わたら​せたまふ​ぞかし。 あれ​こそ善信ぜんしんの御房おんぼう (親鸞) よ」 と申す​と​おぼえ​て、 うちおどろき​て候そうらひ​し​にこそ、 夢にて候そうらひ​けり​とは思おもひ​て候そうらひ​し​か。

恵信尼消息』一通

【現代語訳】

「あれは観音菩薩の化身でいらっしゃいますよ。あの方こそ善信房(親鸞)様ですよ」と言うのが聞こえた気がして、はっと驚いて目が覚めたところ、夢であったのだなあと思いました。

「いま​は​かかる人にて​わたらせ​たまひ​けり​とも、 御心ばかり​にも​おぼしめせ​とて、 しるし​て​まゐらせ候ふ​なり。

よく書き候は​ん人に​よく書か​せ​て、 もち​まゐらせ​たまふ​べし。

 また​あの御ご影えいの一幅いっぷく、 ほしく思ひ​まゐらせ候ふ​なり。

恵信尼消息』二通

【現代語訳】

「(亡き親鸞様は)このような方(観音の化身)でいらっしゃったのだと、せめてお心の中だけでもお思いくださいと思って、これを書き記してお送りします。字の上手な人に清書させて、大切にお持ちください。また、あのお姿を描いた御影の一幅が、欲しく思われます。」

布教における情熱と厳しさ

異義への厳しい姿勢

穏やかな人柄で知られる一方、親鸞聖人は仏法のことになると非常に厳しい一面も持っていました。弟子が教えを誤って解釈した際には、それを厳しく諌めています。『歎異抄』には、親鸞思想の核心である「悪人正機」の真意を理解しない者たちを嘆き、その誤りを正す場面が描かれています。

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、『悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや』。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。」

歎異抄』第三条

【現代語訳】

「善人でさえ往生を遂げるのです。まして悪人はなおさらのことです。ところが世間の人は常に『悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない』と言います。この考えは、一見もっともなようですが、本願他力の教えの趣旨に背いています。」

息子の義絶という苦悩

その厳しさは、家族に対しても向けられました。息子の善鸞が関東の門弟の間で異義を唱え、混乱を引き起こした際には、苦悩の末に義絶(親子関係を断つこと)するという、断腸の思いを経験しています。これに関しては以前の記事をご覧ください。

親鸞の「善鸞義絶事件」とは?我が子を勘当した理由と浄土真宗の教えの根幹 - 月影

師・法然聖人への深い思慕

親鸞聖人の人生において、師である法然聖人との出会いは決定的なものでした。その深い尊敬と信頼の念は、様々な書物から窺い知ることができます。

師との信心の一致

法然聖人と自身の信心が全く同じものであるという確信は、以下の『歎異抄』後序の有名な逸話からも伺えます。

「いかでかその義あらん」という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御まえにて、自他の是非をさだむべきにて、この子細をもうしあげければ、法然聖人のおおせには、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。別の信心にておわしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ」とおおせそうらいしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ御こともそうろうらんとおぼえそうろう。いずれもいずれもくりごとにてそうらえども、かきつけそうろうなり。

歎異抄』後序

【現代語訳】

「(信心が違うなら同じ浄土に生まれることはできないと主張する人々から)『どうしてそのような義があろうか』という疑問が出されたので、つまるところ(師である)聖人(法然)の前で、自分と他の者の考えの是非を決めようということになり、この詳細を申し上げたところ、法然聖人はおっしゃいました。『私、源空法然)の信心も、阿弥陀如来からいただいた信心です。善信房(親鸞)の信心も如来からお授けいただいた信心です。ですから、全く一つなのです。もし違う信心でいらっしゃるような人は、私が参る浄土へは、まさかお参りになることはないでしょう』とおっしゃられたので、当時のひたすら念仏を修める人々の中にも、親鸞様の御信心と同じでない方もいらっしゃったのだろうと思われます。どちらも繰り返しになりますが、書き付けました。」

師への絶対的な信頼

親鸞聖人が法然聖人をいかに絶対的に信頼していたかは、妻・恵信尼が伝える以下の言葉からもわかります。

「上人の​わたら​せたまは​ん​ところ​には、 人は​いかにも申せ、 たとひ悪道に​わたら​せたまふ​べし​と申す​とも、 世々生々にも迷ひ​けれ​ば​こそ​あり​けめ、 と​まで思ひ​まゐらする身なれば」と、 やうやうに人の申し候ひ​し​とき​も仰せ候ひ​し​なり。

恵信尼消息』一通

【現代語訳】

「(親鸞様は)『上人(法然)がどのような世界へ行かれようとも、人が何と言おうと、たとえ地獄のような悪道に行かれると言われても、(私はついて行きます)。(もしそうなら)それは私がこれまで多くの生涯で迷い続けてきたからに違いありません。そのようにまで思っております身ですから』と、人々が様々に申し立てた時にもおっしゃっていました。」

師から受けた恩愛

また、主著『教行信証』には、法然聖人から『選択本願念仏集』の書写を許され、直筆の言葉や御影を賜ったことへの深い感謝が記されています。

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生…(中略)…衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。

教行信証』化身土巻

【現代語訳】

しかるに、この愚禿釈鸞(親鸞)は、建仁元年(1201年)、様々な修行(雑行)を捨てて阿弥陀仏の本願に帰依しました。元久二年(1205年)、(法然上人の)ご恩と許しをいただいて、上人の著書である『選択本願念仏集』を書き写させていただきました。同じ年の五月十四日に、『選択本願念仏集』という内題の文字、ならびに『南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本』と、『釈綽空(法然の署名)』の字を、法然上人ご自身の筆で書いていただきました。同じ日に、法然上人の御影(肖像画)をお預かりし、それを写し描かせていただきました。同じ(元久)二年閏七月二十九日、その御影の画賛に、上人ご自身の筆で『南無阿弥陀仏』と、『若我成仏…(中略)…衆生称念必得往生』(四十八願の第十八願の文)の真筆を書いていただきました。

法然上人滅後

別れの悲しみ

1207年の承元の法難により、親鸞聖人は越後へ流罪となります。その最中、師である法然聖人は京都で最期を迎えました。師の死に目に会えなかった悲しみは、計り知れないものがあったでしょう。

空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。皇帝 諱守成 聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。奇瑞称計すべからず。『別伝』に見えたり。

教行信証』化身土巻

【現代語訳】

師である源空法然)上人ならびに弟子たちは、様々な地方の辺境の地に流罪となってから五年の歳月が経った。時の皇帝、諱は守成(土御門天皇)の御代、建暦元年(1211年)、十一月十七日に、勅免をいただいて京都にお戻りになった後、源空上人は、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北のあたり、大谷にお住まいになった。同じく建暦二年(1212年)一月二十五日の午の時に、ご入滅なされた。その際に現れた不思議な瑞相は数えきれないほどであったと、『(法然上人行状絵)別伝』に記されている。

師の墓を訪ねて

親鸞聖人は法然聖人が亡くなった時(1212年1月)、雪深い越後にいたため葬儀には参加できませんでした。その後、墓参りをしたかどうかの直接的な記録はありません。

しかし、真宗興正派の本山・興正寺の沿革には、以下のように記されています。

興正寺の創建は鎌倉時代にさかのぼります。承元の法難により越後国へと配流された親鸞聖人が、建暦元年(1211)に勅免をうけた後、翌建暦2年(1212)に京都へと一時帰洛して、山科の地に一宇を草創したことに始まります。』

この記述は、親鸞聖人が赦免後、関東へ向かう前(1214年)に、一時的に京都に戻っていた可能性を示唆しています。もしそうであれば、敬愛する師・法然聖人の墓に参ったと考えるのはごく自然なことでしょう。

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