親鸞の息子の善鸞が親鸞から教外別伝を受けたと言っていたのを、親鸞が否定しました。これが、善鸞の義絶事件です。
これは単なる親子の確執という話ではなく、親鸞聖人が生涯をかけて明らかにした浄土真宗の教えの根幹が、実の息子によって揺るがされそうになった、非常に重大な事件でした。
なぜ親鸞聖人は、禅宗では尊ばれる「教外別伝」という考え方を、我が子に対してこれほどまでに厳しく否定し、義絶(親子の縁を切ること)という、断腸の思いの行動に出たのでしょうか。
何が起きたのか?:善鸞の主張
京都にいた親鸞は、関東の門弟たちの間で教えに混乱が生じていることを聞き、自身の代理として信頼する息子の善鸞(当時54歳頃)を関東へ派遣しました。しかし、善鸞は現地で力を持っていた性信(しょうしん)や真仏(しんぶつ)といった古参の門弟たちと、教えの解釈などをめぐって激しく対立するようになります。
現地の門弟たちの間で、次のような主張をし始めました。
「父、親鸞から、夜中に私一人だけが、こっそりと特別な奥義を授かった。これは他の者には明かしていない、秘密の教え(専修賢善・せんじゅけんぜん)である」
これは、まさに浄土真宗版の「教外別伝」です。「自分だけが特別な教えを受けた選ばれた人間だ」と主張し、権威を確立しようとしたのです。さらに、為政者と結びついて教えを広めるべきだ、といったことも説いていたようです。
親鸞の反応:怒りと否定
この知らせを聞いた当時80歳を超えていた親鸞聖人は、激しく怒り、善鸞に宛てて「義絶状」という手紙を書き、親子の縁を切ることを宣言します。
その手紙の中で、親鸞聖人は善鸞の主張を完全に否定しています。
* 「慈信房(善鸞)の方、文の様、名目だにも聞かず、知らぬことを、慈信一人に夜、親鸞が教えたるなりと、人に慈信房申されてさ候とて、これにも常陸・下野の人々は皆背くらむか。そらごとを申したる由を、申し合われてさ候えば、今は父子の義は、あるべからずさ候。」
現代語訳
善鸞が広めているという教えについて、私はその名前さえ聞いたことがなく、全く知らない事柄である。それなのに、(善鸞は)『それは慈信(善鸞)一人だけに、夜中に親鸞が教えたことなのだ』と(言っているらしい)。
(善鸞が、私が教えたのだと)人々に言いふらしているとやらで、このことによって常陸(現在の茨城県)や下野(現在の栃木県)の人々は皆、(私の本当の教えに)背いてしまうのでしょうか。
(それどころか、善鸞がついた嘘のせいで、逆に)私が嘘を言ったのだと皆で話し合っていると聞いておりますので、もはや父と子の縁は、あってはならないものです。
注意:夜中にこっそりと教えた』と善鸞が主張したとされていますが、この部分は『善鸞一人が言い出したことによる』とも解釈できるなど、研究者の間でも議論がある点です
* 「親鸞にそらごとを申しつけたるは、父を殺すなり。五逆のその一なり。このことども伝え聞くこと、浅ましさ申す限りなければ、今は親と言うことあるべからず。子と思うこと、思い切りたり。三宝神明に申し切り、終わりぬ。」
現代語訳「(息子が)この親鸞について嘘を言いふらすのは、父親を殺すのと同じことである。それは仏教で最も重い罪とされる五逆罪の一つなのだ。
このような(善鸞の)行いを伝え聞くにつけ、その嘆かわしさは言葉では言い尽くせないほどなので、もはや私が親であるということはあり得ない。(善鸞を)我が子だと思う気持ちは、完全に捨て去った。
仏・法・僧の三宝、そして神々に対しても、この決意をはっきりと申し上げ、縁を切る手続きはすべて終えた。
なぜ親鸞は「教外別伝」を否定したのか
禅宗における「教外別伝」は、言葉にできない「悟りの体験」を伝えるための、尊い方法です。ではなぜ、親鸞聖人はそれを断固として否定したのでしょうか。
それは、阿弥陀仏の救いの性質が、禅の悟りとは根本的に異なるからです。
* 万人への「平等の救い」の破壊
阿弥陀仏の救いは、善人・悪人、賢い者・愚かな者、修行ができる者・できない者を一切差別しません。すべての人が、ただ「南無阿弥陀仏」と称えることで、平等に救われるというのが、親鸞聖人の教えの根幹です。
もしここに「特別な人にだけ伝える秘密の教え」が存在すれば、その瞬間に教えは「平等」ではなくなり、「秘密を知る者」と「知らない者」という差別が生まれてしまいます。これは、阿弥陀仏の本願そのものを否定する、最も重い罪でした。
* 「絶対他力」の教えの破壊
浄土真宗の救いは、100%阿弥陀仏の力(他力)によるものであり、私たち人間側の「何か」(修行、知識、善行など)は、救いの条件には一切なりません。
善鸞の主張は、「秘密の教えを知る」という人間側の特別な条件を、救いの中に持ち込むものです。これは、すべてを仏におまかせする「絶対他力」の教えを、自力的な教えへと堕落させる、許されない行為でした。
* 教えの「公開性」
親鸞聖人の教えは、主著である『教行信証』をはじめ、すべてが公開されています。隠すような教えは何一つありません。「南無阿弥陀仏」の六文字こそが、救いのすべてであり、それ以上でもそれ以下でもない。これが親鸞聖人の一貫した立場でした。
一般に知られる善鸞事件の通説に対し、歴史学者の今井雅晴氏は著書『親鸞と如信』(自照社出版)で、いくつかの重要な疑問点を提示しています。主な論点は以下の通りです。
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関東における教えの変質と対立 親鸞が帰京した後、関東ではその教えが地域独自のものに変質し始めていました。善鸞は現地の門弟たちをまとめる過程で独自の解釈を加えたため、既存の有力な門弟たちとの間に対立が生じたのではないかと指摘されています。
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史料の信憑性に関する問題 義絶状の原本(親鸞の真筆)が現存せず、今に伝わる写本は、善鸞と対立関係にあった高田派の顕智が、事件から48年も後に書写したものです。このことから、事件は単なる教義上の対立だけでなく、門弟間の縄張り争いの結果として、善鸞が一方的に悪者に仕立て上げられた可能性が考えられます。
まとめ
親鸞聖人が善鸞を義絶したのは、単なる親子喧嘩や感情的なものではなく、阿弥陀仏の平等の救いが、「特別意識」や「秘伝思想」といった、人間的な計らいによって破壊されることを、命をかけて防ごうとした、護法(仏法を護る)のための悲痛な決断だったのです。
この事件は、浄土真宗がいかに「すべての人に開かれた、透明で平等な救い」を大切にしているかを、逆説的に、そして最も鮮烈に物語っていると言えるでしょう。
参考