あなたは救われる人? 法然上人の説法に学ぶ「信心」のかたち
「仏教を信じたいけれど、いまいちピンとこない」「信心が足りないから、私は救われないのかもしれない…」
仏教に関心を持つと、一度は「信じる」ことの壁に突き当たるのではないでしょうか。それは、何かを無理やり信じ込むことなのでしょうか。それとも、立派な人だけが持てる特別な心なのでしょうか。
今回は、浄土真宗の開祖である親鸞聖人が、その師である法然上人の尊い言葉を書き留めた『西方指南書』という書物から、そのヒントを探ってみたいと思います。師を心から敬愛する親鸞聖人が伝えたかった、法然上人の言葉。そこにある「信心」は、私たちの不安を安心へと変えてくれる、温かい光のようなものでした。
教えが心に響くのは、偶然ではない
まず法然上人が説くのは、教えを聞いて「信じる心」が生まれるのは、決して偶然ではないということです。聖人はあるお経を引用して、次のように述べます。
淨土の法門をとくをきゝて、信向してみのけいよだつものは、過去にもこの法門をきゝて、いまかさねてきく人なり。いま信ずるがゆへに、決定して淨土に往生すべし。
【意訳】
浄土の教えを聞いて、信じる心が向かい、感動で身の毛がよだつような人は、実は過去の人生でもこの教えを聞いたことがあるのです。そして今、再び聞いているのです。そのように今、信じることができるからこそ、間違いなく浄土に往生することができるのです。
私たちは、何か尊い教えに触れたとき、「なぜか心に響く」「なぜか涙が出る」と感じることがあります。この文章によれば、それは過去世からの深いご縁の証なのです。無理に信じようと努力するのではなく、教えが自然と心に入ってくる感覚、それこそが「信心」の始まりであり、すでに救いの道を歩んでいる証拠だと言えるでしょう。
人生の最期、本当に大切なこととは?
次に、この文章は私たちの「死」に対する大きな不安を取り除いてくれます。多くの人は、「死ぬ間際に心を乱さず、正しく念仏を称えなければ、仏様は迎えに来てくれないのではないか」と考えてしまいます。しかし、法然上人はその考え方を「逆ですよ」と教えてくれます。
しかれば、臨終正念なるがゆへに來迎したまふにはあらず、來迎したまふがゆへに臨終正念なりといふ義、あきらかなり。
【意訳】
ですから、「臨終の瞬間に心を正しく保っているから、仏が迎えに来てくださる」のではありません。「仏が必ず迎えに来てくださるからこそ、臨終の心は乱れずに正しく保たれる」のです。この意味は明らかです。
これはまさに「目から鱗が落ちる」ような、大転換ではないでしょうか。
私たちの力(自力)で人生の最期を完璧に締めくくるのは、病の苦しみなどを考えれば至難の業です。しかし、法然上人は「心配しなくてよい」と言います。大切なのは、最後の瞬間に頑張ることではなく、生きている今、普段から「阿弥陀仏は、こんな私を必ず迎えに来てくださる」と信じ、お任せする心です。
その信心さえあれば、阿弥陀仏の力(他力)によって、人生の最期は安らかな心(正念)へと自然に導かれるのです。
まとめ
法然上人の説法(親鸞聖人『西方指南書』より)から見えてくる「信心」とは、
- 自分の力で作り出すものではなく、過去からのご縁によって自然と心に響くもの。
- 自分の不完全さを嘆くのではなく、仏様の完全な救いを疑わずにお任せする心。
もしあなたが今、仏様の教えに少しでも心が惹かれているのなら、それはすでに救いの光の中にいる証拠なのかもしれません。不安や焦りからではなく、安心してお任せするところから始まる信仰の形が、ここには示されています。
[お読みいただくにあたって]
本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。