悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり 修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに 虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる
これは、親鸞聖人が晩年に詠まれた和歌(正像末和讃)です。 私なりに解釈すると、このようになります。
「生まれ持った悪い性分(悪性)は、どうしてもやめることができない。私の心は、まるで人に忌み嫌われるヘビやサソリ(蛇蝎)のようだ。そんな私が善い行いをしようとしても、それには煩悩という毒が混じっている(雑毒)。だから、そのような自力での行いは、真実ではない、むなしく偽りの行い(虚仮の行)と名付けたのだ。」
(出典:『浄土真宗聖典 註釈版 第二版』617ページ「愚禿悲嘆述懐」)
私も最初にこの歌の前半を知った時、「これは、まさに自分のことだ」と、心を見抜かれたように感じました。この和歌が示すように、心の中に絶えず湧き起こる煩悩や欲望と共に生きているのは、私だけではないでしょう。
仏道の専門家ではない私にとって、後半の「虚仮の行」といった部分はすぐには理解できませんでした。どうにかしてこの醜い心をなくしたいと思うものですが、親鸞聖人のような高僧でさえ、晩年にこのような心境を吐露されていたことに、深い驚きと、同時に不思議な親近感を覚えたのです。
和歌に込められた親鸞の思い
この和歌は、親鸞聖人自身のどうしようもない煩悩に対する深い自覚と、それでもなお阿弥陀仏の本願によって救われるという、絶対的な他力への信心を示しています。
「悪性」とは、人間が生まれながらに持つ根深い欲望や怒り、嫉妬といった煩悩のことです。それを、忌み嫌われる「蛇蝎」に例えるほど、親鸞は自らの心を厳しく見つめていました。
しかし、この和歌は単なる絶望の告白ではありません。むしろ、このどうしようもない私だからこそ、救いの対象となる道が示されています。自らの力で行う善行(修善)では、煩悩という毒が混じっているため真の救いには至らない。だからこそ、自分の力を頼みとする「自力の限界」を認め、すべてを阿弥陀-仏の力(他力)に任せることの重要性を説いているのです。
凡夫とは、どのような存在か
親鸞は、別の書物にも同様のことを記しています。
凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと。
(出典:『浄土真宗聖典 註釈版 第二版』693ページ「一念他念文意」) これは、親鸞85歳の時の言葉です。
意味は、「凡夫(私たちのような普通の人間)とは、仏の智慧に暗い無明と煩悩が全身に満ち満ちており、欲望も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心が絶え間なく湧き上がり、それは死の瞬間まで、止まることも消えることもない」というものです。
これは、生きている限り人間は煩悩から決して逃れられないという、厳しい現実認識を示しています。私たちが抱える欲や怒り、嫉妬といった心は、仏教で「三毒」とも呼ばれ、苦しみの根源とされます。
しかし、親鸞聖人はこれらの煩悩を「なくすべきだ」と断罪するのではありません。むしろ、「煩悩を抱えたままでしか生きられない、そんな私たちだからこそ、阿弥陀仏は救うと誓ってくださったのだ」という、絶対的な救いの希望を示しているのです。
参考文献