浄土真宗の「信心」とは?—『信心獲得章』から学ぶ、阿弥陀に"まかせる"こころ
私たちはしばしば、「信心」というと、自分が努力して「獲得するもの」や「手に入れるもの」と考えがちです。しかし、浄土真宗で大切にされる『信心獲得章』のこころは、それとは少し異なる視点を示しています。
この記事では、蓮如上人の『信心獲得章』(五帖目五通)が示す「信心」のあり方について、その要点をまとめます。
『信心獲得章』(五帖目五通)本文、現代語訳はここをクリックしてください。
信心獲得章のこころ(五帖目五通)
信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。 これを『大経」には「 令諸衆生功徳成就」と説けり。されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、 正定聚不退の位に住すとなり。これによりて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるはこのこころなり。
現代語訳
信心をいただくということは、阿弥陀如来さまの第十八の御本願を聞かせていただくことであります。この御本願を聞くということは、如来の仰せにまかせるものを救うという南無 阿弥陀仏のいわれを聞かせていただくことであります。だから如来の仰せにまかせた一念の ところに、凡夫を救わずにはおけないという如来の願いが同時に具わっているのです。このことはそのまま、弥陀如来が凡夫に住生行を与えてくださっているこころであります。このことを「大経』に「一切衆生を一人も漏らさず、浄土に往生せしめ仏になる功徳を与え満足させるはたらきが成就された」と説きあらわされています。はじめのわからない久遠の昔から、積み重ねて来た数多くの悪業煩悩をすべて残すことなく、凡夫では考え及ばない如来の 本願のはたらきによって消滅してくださるいわれがありますから、只今、この身のままで正 定聚不退の位に住するのだといわれるのです。それで煩悩のあるままで涅槃のさとりを開く べき身にさせていただけるのは、こうしたいわれがあるからです。
「信心獲得」=第十八願のこころを聞くこと
まず、『信心獲得章』の本文では、「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり」と示されています。
これは、「信心をいただく」ということは、阿弥陀如来さまの第十八の御本願(すべての人を救うという願い)を聞かせていただくことである、という意味です。
さらに、「この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」と続きます。つまり、阿弥陀如来の仰せに「まかせるもの」を救うという、「南無阿弥陀仏」のいわれを聞かせていただくことが、信心の核心であるとされています。
私が「おこす信心」から、如来の「仰せにまかせる」信心へ
私たちは、「信心を獲得する」「信心をとる」と聞くと、どうしても自分(凡夫)の力で何かを成し遂げようとしてしまいます。
しかし、聖典セミナー『御文章』で宇野行信師は、この「凡夫の私が中心となって思考するくせ」が、かえって私たちを不安にさせると指摘しています。あてにならない自分の胸に(救われたかどうかを)尋ねても、疑いの雲が湧いてくるばかりです。
そこで重要になるのが、「仏まします」(仏がここにおられる)という視点です。この視点に立つとき、関心は「私が救われるかどうか」という自己中心的な心配から、「如来さまが私をどう見ておられるか」という方向へと転換します。
真宗の聴聞(ちょうもん)とは、私たちの救いに関する心配は、すでに阿弥陀如来が先取りして解決済みである(如来の問題である)ことを聞かせていただくことです。
「必ず引き受けた、安心せよ」という如来の仰せの一つで安心する。それが浄土真宗の信心です。甲斐和里子女史が足利義山和上に救いを尋ねた際の逸話、「何も持たで、そのまま来いのお喚び声」という言葉が、このことを象徴しています。
信心の利益—「煩悩を断ぜずして涅槃をう」
では、信心をいただいた利益(りやく)とは何でしょうか。それは、自分の都合の良い願いが叶うこと(ご利益)ではありません。
『信心獲得章』は、信心の利益を「正定聚不退の位に住す」と示します。これは、この身このままで、必ず仏になることが定まった身になる、ということです。
この境地を、さらに「煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)をう」という言葉で説明しています。
一般的に、仏教の修行は煩悩を「断じて」さとりを得ることを目指します。しかし、阿弥陀如来の救いは、煩悩を断つことができない私たち凡夫のためにあります。
煩悩は「大悲を喜ぶ手だて」となる
煩悩に束縛される生活は、誰しも同じです。都合の良いことは受け入れられても、死のような都合の悪いことは受け入れられないのが私たちです。
しかし、浄土真宗の教えでは、その「煩悩」こそが、逆転の役割を果たします。
聖典セミナー『御文章』で宇野行信師は、桐溪順忍(きりたにじゅんにん)和上の言葉を引き、「どれほど聴聞し、お育てに出会っても少しも煩悩のなくならない私のために、如来のご苦労があったのだ」と気づくとき、煩悩は「如来の大悲をよろこぶ手だて」となると述べられています。
煩悩を無くそうと努力するのではなく、煩悩があるからこそ、如来の本願の尊さに気づく因縁となるのです。