月影

日々の雑感

【浄土真宗】信心の核心「清浄心」と「決定心」とは? 自力と他力の違いをわかりやすく解説

浄土真宗の「信心」とは? あなたの心を救う「清浄心」と「決定心」

浄土真宗では「信心(しんじん)」が大切だ」とよく耳にしますが、その「信心」とは一体どのようなものなのでしょうか。

「信じる」と聞くと、私たちはつい「私が、頑張って信じること」と考えがちです。「疑ってはいけない」「強く信じ続けなければ」と、自分自身の心を努力して奮い立させるイメージです。

しかし、浄土真宗の開祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)が説かれた「信心」は、そのイメージとは根本的に異なります。それは、私たちが自力で生み出す心ではなく、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏様から、まるごと私たちに届けられる「まことの心」です。

この記事では、阿弥陀如来からいただく「信心」が持つ、二つの重要な側面——「清浄心(しょうじょうしん)」「決定心(けつじょうしん)」——について、できるだけわかりやすく解説していきます。


第一部:清浄心(しょうじょうしん)—— 泥の中に咲く蓮の花

1. 「清らかな心」とは誰の心か?

「清浄心」とは、文字通り「清らかな心」を意味します。
仏教では伝統的に、修行によって煩悩(ぼんのう:欲望や怒り、ねたみなど)を断ち切り、心を清らかにしていくことを目指します。

しかし、親鸞聖人は、私たち人間(凡夫)は、どれだけ努力しても、煩悩を完全に無くすことはできない存在だと深く見つめられました。私たちの心は、清らかであろうと努めても、すぐに自己中心的な思いや欲望に汚されてしまいます。これが「自力」の限界です。

では、浄土真宗でいう「清浄心」とは何でしょうか?
それは、私たちが努力して得る「清らかな心」ではなく、阿弥陀如来の「この上なく清らかな願心(がんしん)」そのものを指します。

阿弥陀如来は、「すべての人々を、煩悩にまみれたその姿のまま、必ず救いとる」という誓い(本願)を立てられました。この仏様の「まことの心」は、私たちの煩悩によって汚されることのない、絶対的な清らかさを持っています。

2. 私たちに届けられる「清浄心

浄土真宗の「信心」とは、この阿弥陀如来の「清らかな心」が、そのまま私たちに届けられ、私たちの心に宿ること(回向:えこう)を言います。

このことを、浄土真宗を広められた蓮如上人(れんにょしょうにん)は、「蓮(はす)の花」に例えておられます。
蓮の花は、汚れた泥沼の中から生えてきますが、その泥に染まることなく、清らかで美しい花を咲かせます。

これと同じように、私たちは煩悩という泥の中に生きています。しかし、阿弥陀如来の「必ず救う」という清らかな本願(清浄心)を疑いなく受け入れたとき、その仏様の清らかな心が、私たちの煩悩の泥に染まることなく、そのまま「信心」という花として咲くのです。

つまり、浄土真宗の「清浄心」とは、私たちが清らかになることではなく、阿弥陀如来の絶対的な清らかさが、汚れたままの私たちに届いた状態をいうのです。


第二部:決定心(けつじょうしん)—— 決して壊れない救いの土台

1. 「定まった心」とは誰の決意か?

「信心」のもう一つの側面が「決定心」です。
浄土真宗では、これを「信心決定(しんじんけつじょう)」と呼びます。「けってい」ではなく「けつじょう」と読むのは、それが私たちの決意ではなく、仏様によって「ハッキリと定まる」ことを強調するためです。

もし「信心」が「私が信じよう」という自力の決意であれば、どうなるでしょうか。
私たちの心は移ろいやすく、不安定です。「今日は信じられる気がするけれど、明日は不安になるかもしれない」「本当にこんな自分で大丈夫だろうか」と、常に揺れ動いてしまいます。そのような脆い決意では、救いは定まりません。

浄土真宗の「決定心」は、このような私たちの移ろいやすい「決意」ではありません
それは、阿弥陀如来「絶対にあなたを救う」という揺るぎない「決意」そのものが、私たちに届いた姿です。

2. 「金剛(こんごう)の信心」とは

阿弥陀如来の「救う」という決意(本願力)は、何ものによっても壊されることがありません。この堅固さを、仏教では「金剛(ダイヤモンド)」に例えられます。

阿弥陀如来から回向された信心は、私たちの心から生まれたものではなく、この「金剛」のように堅い仏様の願力に支えられています。だから、これを「金剛の信心」と呼びます。

この信心が私たちに届いたとき、二つのことが「決定」します。

  1. 疑いがなくなること

    阿弥陀如来の「まことの心」が届くと、私たちの心にあった「本当に救われるのだろうか」という根本的な疑い(疑蓋:ぎがい)が、仏様の力によって打ち破られます。「阿弥陀様が、この私を救ってくださることに間違いなかった」と、疑いなくハッキリするのです。

  2. 浄土への往生が定まること

    この「金剛の信心」をいただいた瞬間(一念)、私たちはまだ煩悩を抱えた凡夫のままですが、この人生を終えた後に阿弥陀如来の浄土へ生まれること(往生)が、間違いなく定まります。これを「即得往生(そくとくおうじょう)」と言います。

つまり、「決定心」とは、私たちの心が強くなることではなく、阿弥陀如来の「絶対に壊れない救いの力」によって、私たちの往生が今、この瞬間にハッキリと定まった状態をいうのです。


結論:清浄心と決定心は、一つの「他力の信心」

ここまで見てきたように、「清浄心」と「決定心」は別々のものではありません。
これらは両方とも、阿弥陀如来が私たちに差し向けてくださる「他力の信心」という一つの「まことの心」が持つ、二つの側面です。

  • 浄心は、その信心の「」を表します。
    それは、煩悩の泥に染まらない、仏様の「清らかな心」そのものです。
  • 決定心は、その信心の「確実さ」を表します。
    それは、私たちの心の揺らぎに影響されない、仏様の「絶対に救うという力」によって往生が定まった状態です。

浄土真宗の救いとは、私たちが努力して清らかになったり、強い決意を持ったりすることではありません。

煩悩を抱えた「泥の中」の私たちに、そのまま阿弥陀如来の「清らかな蓮の花(清浄心)」が届き、同時に「金剛の土台(決定心)」によって救いが確定する。
これが、親鸞聖人が明らかにされた「他力の信心」の姿なのです。

www.namuamidabu.com

[お読みいただくにあたって]

本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。