月影

日々の雑感

蓮如上人の御文章「十劫邪義章」における誤った浄土真宗の信心への警鐘

「宝の山」で手ぶらに帰らないために

蓮如上人が説く、本当の「信心」とは?〜

浄土真宗を再興したとされる蓮如(れんにょ)上人。その教えをまとめた『御文章(ごぶんしょう)』は、時代を超えて私たちの心に深く響きます。今回は、その中の一節「当国他国十劫邪義章(とうごくたこくじっこうじゃぎしょう)」から、蓮如上人が当時の人々の「信心の誤り」をいかにして正そうとしたのか、その核心に迫ります。


陥りがちな「わかったつもり」という落とし穴

蓮如上人は、当時の浄土真宗門徒の中に、教えを誤って解釈している人が多いことを憂いていました。最も大きな問題は、多くの人が「自分は教えを正しく理解している」と思い上がっていることでした。この背景に、文明6年の応仁の乱に巻き込まれ本願寺門徒が多数参加する一揆が起こりました。この一揆は、高田門徒との宗教戦争の面もありました。

『福井県史』通史編2 中世 文明六年加賀一向一揆

これに、成功したことで門徒の間で心の緩みや思い上がりが起こり、異安心までが広がり混乱が生じていたことがあるようです。この御文章には、これを引き締める目的もあるようです。

当時の問題点

  • 自分勝手な解釈に固執し、「善知識(よきひと)」、つまり真の導き手に教えを乞おうとしない。
  • この「自分はできている」という思い込み(自力執心)こそが、真実の信心から最も遠ざかる原因である。

上人はこの状態を、「宝の山に入りながら、何も持たずに手ぶらで帰るようなものだ」と厳しく戒めています。せっかく素晴らしい教えに出会えたのに、それではあまりにもったいない、というわけです。


あなたの努力は不要?阿弥陀如来の「大いなるお働き」

浄土真宗の教えの中心は、「真実の信心は、私たち人間の側から生まれるものではない」という点にあります。これは一体どういうことでしょうか。

  • 阿弥陀如来のご苦労阿弥陀如来は、まだ法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)として修行されていた頃、私たち凡人が自らの力で行う修行(自力)では、本当の意味で救われることは極めて難しいと見抜かれました。
  • 「他力」という救い:そこで、阿弥陀如来が私たちに代わってあらゆる修行を完成させ、そのすべての功徳を「南無阿弥陀仏」という名号に込め、私たちに差し向けてくださいました。この、阿弥陀如来の側からのはたらきかけを「他力回向(たりきえこう)」と言います。
  • 「不回向」の意味:だからこそ、私たちは阿弥陀如来が用意してくださった救いを、ただ「南無」と受け入れるだけでよいのです。私たちの側から何かを差し向ける必要はないため、これを「不回向(ふえこう)」と表現します。
御文章本文とわかりやすい解説 ここをクリックしてください。

原文

阿弥陀如来の因中においてわれら凡夫の往生の行を定めたまふとき、凡夫のなすところの回向は自力なるがゆゑに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたへんがために回向成就したまひて、一念南無と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたへましますなり。かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。

現代語訳

阿弥陀如来法蔵菩薩の因位にましますとき、五劫の思惟と永劫のご修行によって、われら凡夫の往生行を定められました。その折、凡夫のなす回向は自力である故、浄土往生は成就しがたいと見抜かれました。それ故に如来はご苦労くださって、凡夫のために名号法をご成就くださいました。南無とおまかせする信心のところに、われら凡夫の往生行をお恵みくださいます。凡夫のわれらからする回向ではない故に、この如来さまからの回向を行者の方からは不回向と申すのです。 ー聖典セミナー「御文章」より

簡単に言うと、これは「凡人である私たちは、自分の力で善い行いを積んで極楽浄土に行こうとしても、それは不可能に近い。だから、阿弥陀如来が私たちの代わりに、ものすごい時間と労力をかけて、すでに極楽往生できるすべての準備を整え、それを『南無阿弥陀仏』という名号(みょうごう)に込めてプレゼントしてくれている。私たちはただ、そのプレゼントを信じて受け取るだけでよい」という教えです。 以下に、文章を分解して詳しく解説します。

解説

阿弥陀如来の準備:凡人のための計画

阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩という修行者だった頃、私たちのような普通の人間(凡夫)がどうすれば救われるかを、五劫(ごこう)という非常に長い時間考え、さらに永劫(ようごう)という果てしない時間修行をされました 。その結果、凡夫が自分の力(自力)で功徳を積んで、それを浄土往生のために振り向けようとしても(これを「回向」えこう、と言います)、煩悩が多いために達成は困難であることを見抜かれました 。

阿弥陀如来のプレゼント:「名号」の完成

そこで阿弥陀如来は大変な苦労をされ、凡夫のために往生できるすべての功徳を込めた「名号(南無阿弥陀仏)」を完成させました 。私たちが「南無(なむ)」、つまり阿弥陀如来にすべてをおまかせし、信じる心になった時に、この完成された往生の功徳を丸ごと私たちに恵んでくださるのです 。

「不回向」の意味:私たちは何もしない

通常、「回向」とは自分が行った善い行いの結果を、他者や自分の悟りのために振り向けることを指します。しかし、浄土真宗の教えでは、往生に必要な功徳はすべて阿弥陀如来から「いただく」(回向される)ものです。私たち凡夫の方から差し出すものは何もありません 。このため、修行者(私たち)の側から見れば、これは「回向しない」という意味で「不回向(ふえこう)」と呼びます 。

まとめ

妙好人・才市(さいち)さんの言葉が、この教えを見事に表現しています。

「念仏はわしが称えるではない、念仏は向こうから鳴り出るのでこそあり」

「名号をわしがとなえるじゃない、わしにひびいて、なむあみだぶつ」

つまり、私たちが称える「南無阿弥陀仏」は、自分の力で称えるのではなく、阿弥陀如来の「あなたを必ず救う」という呼び声が、私たちの口を通して現れている姿だと味わうことができます。これが、阿弥陀如来から功徳をいただく「不回向」の心です。


「十劫邪義」— 甘えと誤解が生んだ異端

当時、蓮如上人が特に問題視したのが、「十劫邪義(じっこうじゃぎ)」という誤った考え方でした。

  • 十劫邪義とは?:「阿弥陀如来が悟りを開いたのは、はるか昔(十劫)のことだ。ということは、私たちもその時にすでに救われることが決まっていたのだ。今までそれに気づかなかっただけで、今この瞬間に『そうだったのか!』と気づくことこそが信心なのだ」という考え方です。
  • どこが間違いなのか?:これは一見、もっともらしく聞こえます。しかし、「どうせ救われているのだから」という阿弥陀様の慈悲への甘えにつながりかねません。現に今、迷い苦しんでいる自分を無視して、「本当は救われている」と観念的になるのは、真の救いとは言えません。
  • 本当の味わい方:正しくは、「私たちがどれほど深い迷いの闇にいても、必ず救い出すという阿弥陀様の偉大なはたらきが、十劫の昔にすでに完成されていた。そして、そのはたらきが、今、この私のところにまで届いている」と受け止めるのが、真実の信心の姿なのです。

自分の考えを捨て、教えに耳を傾ける

蓮如上人は、自分勝手な解釈(己見)を捨て、謙虚に「よき人」に教えを乞う姿勢の重要性を繰り返し説きました。

  • 如来の代官として:上人自身、教えを説くときは「私はただ、阿弥陀如来の教えを皆さんにお伝えする『代官』にすぎない」という徹底した姿勢を貫きました。決してご自身の考えを混ぜることはなかったのです。
  • 師の教えに従う:「わかったつもり」になる傲慢さは、教えそのものを見失うことから生まれます。これは、宗派を超えた仏道の基本であり、道元禅師も「師の説を聞いて、自分の考えと同じだなどと思ってはならない」と戒めています。

まとめ

蓮如上人が伝えたかったのは、自分の小さな理解(自力)に固執するのではなく、阿弥陀如来が私たちのために完成してくださった大いなる救い(他力)に、すべてをまかせることの大切さです。

「自分はもう十分にわかっている」という思い込みを捨て、常に教えに立ち返って自らを見つめ直す謙虚な姿勢こそが、「宝の山」から豊かな宝を持ち帰るための唯一の道なのかもしれません。

「この『十劫邪義』について、蓮如上人が具体的にどのように間違いを指摘されたのか、御文章の本文と詳しい解説を読みたい方は、こちらの記事をご覧ください。」 → 記事1へリンク

© ブログ記事作成日 2025年10月