「毎月両度章」に学ぶ、集まりの真意とは? 飲食だけで終わっていませんか?
🪑 集まりが「飲み食い」だけで終わる問題
地域の会合や法事など、私たちが参加する集まりが、本来の目的を見失い、ただ飲食するだけで終わっていませんか?
実はこの問題、今に始まったことではなく、500年以上前の蓮如上人も「御文章(ごぶんしょう)」の一つ、「毎月両度章(まいげつりょうどしょう)」で嘆いていました。
🎯 集まる「本当の目的」とは?
では、その「仏法の本意」とは何でしょうか。蓮如上人は、毎月二度(法然上人[25日]と親鸞聖人[28日]のご命日)の集まり(寄合)の由来を、こう説明しています。
「そもそも、毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり。」
(現代語訳:そもそも毎月二度、集うて来るわけがらは、なんのためかというと、他でもない自身の往生極楽の因である信心を得るためであります。)
聖典セミナー御文章より
集まりの本来の目的は、「自身の信心獲得のため」。つまり、自分自身の救い(往生)がかかった大切な問題について語り合い、教えを聞く(聴聞する)ための場だったのです。
🙏 浄土真宗が説く「信心」とは?
では、その獲得すべき「信心」とは?「毎月両度章」は続けて、浄土真宗の「安心(あんじん)」、つまり救いの核心を説きます。
「それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。」
(現代語訳:当流の安心のご趣旨は、ことさらにわが身の悪業の浅深によるのではなくて、多くの諸善万行という自力の心を用いずに、ただ一心に阿弥陀如来に帰命して、「今度の後生をお助けください」と深くおまかせする衆生を、ことごとくお助けくださることは、疑いの持ちようはございません。)
ポイントは2つあります。
- 自分の罪の深さや善行(雑行)によらない:私たちが「良いこと」をする、そうした自力の行いとは関係ありません。
- ただ一心に阿弥陀如来に帰命する:自分の力(自力)をあきらめ、「阿弥陀さま、お助けください」と、ただひたすら如来の仰せ(働き)におまかせすること(他力)です 。
「必ず助ける」という阿弥陀如来の約束(本願)を、疑いなくそのまま受け入れる。それが「信心」です。このように心得た人は、百人なら百人とも救われると説かれています。
🎉 信心を得た後の集まりは「報恩謝徳」へ
では、信心を獲得したら、もう集まりに行く必要はないのでしょうか?
そうではありません。蓮如上人は最後にこう締めくくります。
「このうへには、毎月の寄合をいたしても、報恩謝徳のためとこころえなば、これこそ真実の信心を具足せしめたる行者ともなづくべきものなり。」
(現代語訳:この上は毎月の寄合に努めて参拝されても、それは「報恩謝徳」の思いからだと心得てくださいませ。それこそが真実信心をいただいた念仏行者と申すべきでありましょう。)
信心を得る「前」は自分の救いのために、「後」は「こんな私を救ってくださった」という阿弥陀如来への感謝(報恩謝徳)の思いから、自然と集まりに足を運び、教えを聞き続けるのです 。
目的が「自分のため」から「感謝のため」へと転換されるのです。
📖 「聴聞」の大切さと「いのち」への気づき
この「毎月両度章」の解説部分には、現代の私たちにも響く、深いいくつかのエピソードが紹介されています。
書物と「生の声」
ある住職は、書物だけでなく「生の声」を通して聴聞(ちょうもん=教えを聞くこと)させていただくことで、心の底に初めて味わうことができる、と語ったそうです。
「聞く」ことの重要性がわかります。九州のあるお寺では、法座が始まる前に、聴聞する心構えとして以下の三つを唱和するといいます。
「此の度のこのご縁は、一つ、初事と思うべし。
一つ、われ一人のためと思うべし。
一つ、今生の最期と思うべし」
「これが最後のご縁かもしれない」「他の誰でもない、この私一人のために説かれている」という真剣な心構えの大切さを説いています 。
カニと芋の詩
「本願寺新報」に掲載されたという、ある詩が紹介されています 。
「カニを食べた。カニの一生を食べてしもうた。カニにもろうた私の今日のいのち。 芋を食べた。芋の一生を食べてしもうた。芋にもろうた私の今日のいのち。 そう思うたら、お念仏がこぼれた」(小樽市・島本邦子)
この詩は、「善いことをした」と誇っている私自身が、その「善」によってさえ他人を傷つけているかもしれない、悪も善もすべて罪でしかない「凡夫(ぼんぶ)」であるという事実に気づかせてくれます 。
だからこそ、「凡夫の罪障の浅深(罪の深さ浅さ)」に関係なく救うという阿弥陀如来の大悲(だいひ)でなければ、私たちは救われる道がないのです。
如来の「疑いのない心」
私たちはすぐに「疑う」心(疑心)を起こします。しかし、親鸞聖人が示す他力の信心は「無有疑心(むうぎしん)」、つまり「疑い心がない」状態です。
これは、私たちが努力して疑いをなくすのではありません。「凡夫を救う」と決めた如来さまの側が、その「疑いのない心」をそのまま私たち凡夫に届けてくださるのです。
如来さまの「疑いのない心」がそのまま届けられるから、私たちの「疑いごころがすたる(なくなる)」のです。
参考文献
[お読みいただくにあたって]
本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。