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日々の雑感

蓮如上人 此方十劫邪義章: 誤った信心について示す

 

蓮如上人の御文章に学ぶ「他力の信心」- 此方十劫邪義章より

蓮如上人が他力の信心について書かれた御文章の一つを紹介します。この御文章では、私たちが陥りやすい間違った信心の捉え方をわかりやすく示しています。

御文章「此方十劫邪義章(一帖目十三通)」

【本文】

そもそも、ちかごろは、この方念仏者のなかに、不思議の名号をつかひて、これこそ信心をえたるすがたよとひいて、しかもわれは当流の信心をよく知り顔の体に心中にこころえおきたり。そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあyamariなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごととなり。……(中略)……されば信心といへるそのすがたはいかやうなることぞといへば、まづもろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心にもつぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもつてその身を摂りて捨てたまふべからず。

(註釈版聖典 一一〇二〜三頁)
【現代語訳】

そもそも、近頃、念仏をとなえる人々の中に、口では不思議な仏の御名(南無阿弥陀仏)をとなえながら、「これこそが信心を得た者の姿なのだ」と言い、その上、自分は当流(浄土真宗)の信心をよく分かっている、というわけ知りな顔つきで心に決めてかかっている者がいます。

その人たちが言うことには、「阿弥陀如来が十劫という遠い昔に悟りを開かれたその時から、私たち衆生の往生を定めてくださった。その大いなる御恩を忘れないこと、それが信心なのです」と言っています。しかし、これは大変な間違いです。

たとえ、阿弥陀如来が悟りを開かれたいわれを知っていたとしても、私たちが浄土に往生するために本当にいただくべき「他力の信心」がどういうものであるかを知らなければ、その知識は全くの無駄になってしまうのです。

……(中略)……

それでは、「信心」とは、いったいどのようなありさまを言うのでしょうか。

それはまず、自分の力で行う様々な修行や善行(雑行)を脇に置いて、ただひたすらに阿弥陀如来だけを頼りとし、阿弥陀仏以外のあらゆる神々や仏がたに心を向けることなく、一心にもっぱら阿弥陀仏に自分のすべてをおまかせすることです。

そのように阿弥陀仏に帰命するならば、如来は必ずその光明をもってその人をおさめ取って、決して見捨てることはありません。

御文章の解説:信心の誤りと真実

この御文章で「大いなる誤り」と指摘されているのは、信心(信仰)を個人の知的な理解や心掛けの問題だと考えてしまうことです。

何が誤りなのか? 🤔

誤りとされているのは、「阿弥陀如来が十劫という遠い昔に、私たちの往生を決めてくださった。その御恩を忘れずにいることこそが信心である」という考え方です。

本文では、この考えを次のように紹介し、はっきりと「これおほきなるあやまりなり(これは大いなる誤りである)」と断じています。

「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。

なぜそれが誤りなのか? 🧐

この考え方が誤りとされる理由は、信心を知的な理解や個人の心掛け(努力)の問題にしてしまっているからです。

  • 知識 ≠ 信心: 阿弥陀如来が過去に成仏したという「物語」や「歴史」を知っていることと、今ここで自分が救われるための「他力の信心」をいただくことは、全く別であるとされています。知識として知っていても、「他力の信心」そのものをいただかなければ、それは「いたづらごと(無駄なこと)」になってしまうのです。
  • 自力 vs 他力: 「恩を忘れないようにしよう」と心掛けるのは、自分の力(自力)で信心を保とうとする姿勢です。しかし浄土真-宗で最も大切なのは、阿弥陀さまの側から与えられる救いの働き、すなわち「他力」をそのまま受け入れることです。

では、正しい信心とは? 🙏

この文章が示す正しい信心のあり方とは、自分の行いや考え(自力)を捨てて、ただひたすらに阿弥陀如来にすべてをおまかせする心(帰命)のことです。

具体的には、以下のように説明されています。

  • 雑行をさしおきて: 自分の善行など、様々な行いに頼るのをやめる。
  • 一向に弥陀如来をたのみ: ただ一筋に阿弥陀如来だけを頼りにする。
  • 自余の諸神・諸仏等にもこころをかけず: 他の神仏に心を移さない。
  • 一心にもっぱら弥陀に帰命せば: この一心で阿弥陀如来におまかせすれば、如来の光によって救い取られ、決して見捨てられることはない。

つまり、人間側の「忘れない」という努力ではなく、阿弥陀如来側の「見捨てない」という絶対的な救いを信じることが、本当の信心であると示しているのです。

 

信心に関する宇野行信師の言葉を引用します。(聖典セミナー 御文章 本願寺出版

信じるとは、信じろといわれますが、一体、何を信じるのでしょうか。助かると間違いのない大丈夫という、わが思いを信じるのでしょうか。それとも、仏さまと同じ純真の心が、私の中にあると信じるのでしょうか。こうした凡夫の描いた思い、信じっぷりが、いかにあてにならないものかということを、私達は幾度となく思い知らされてきたことかと思います。

では、何を信じるのでしょうか。もちろんそれは、「安心せよ、必ず救う」という仏語、阿弥陀さまの仰せ一つを信じるのが、真宗の信心であります。

ここで注意したいことは、仰せを信じるのは、私の思いで信じたのではありません。阿弥陀を信じ、まかす心の一かけらもなかった凡夫が、先手の「安心せよ、必ず救う」という阿弥陀さまのはたらきに催されて、自然に信ぜずにまかせずにはおれなくなったのです。     聖典セミナー 御文章 一一六十八頁)

「この記事で扱った『十劫邪義』が、どのような歴史的背景から問題となったのか、また関連する『不回向』の教えについては、こちらの記事で詳しく解説しています。」 → 記事2へリンク

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