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【要約】安田理深「信仰についての対話1」解説|自力(二十願)から他力(十八願)への道

 

安田理深師「信仰についての対話1」解説:自力の苦悩から他力(十八願)へ

この記事では、浄土真宗碩学・安田理深師(1900~1982)と、真摯に信仰を求める兵頭氏との対話録「信仰についての対話1」を読み解きます。

この対話は、自力(十九願・二十願)の信心から、いかにして他力(十八願)の信心へと転入するのか、その過程で求道者が抱える深い苦悩と葛藤を見事に描き出しています。特に、兵頭氏が「第二十願」の段階で行き詰まり、どうしても「第十八願」に入れない姿が浮き彫りになります。

1. 「本願」と「私」の関係:埋まらない距離

対話の出発点は、壮大な阿弥陀仏の本願と、ちっぽけな「私」との間にある隔たりです。

兵頭氏の主張・疑問

  • 本願は「十方衆生(すべての人々)」に向けられたものだと頭では理解しているが、それがどうして「この私一人のため」の呼び声になるのかが腑に落ちない。
  • 自分と本願との間に大きな距離を感じており、どうすればその本願に「入れる」のか、本願を自分のものとして「受け取れる」のかを探し求めている。
  • 「他力回向」と聞いても、自分が何かを「待っている」ような感覚が抜けず、主体的に関われないもどかしさを感じている。

安田師の答え

  • 「十方衆生」と「私」は対立するものではなく、「十方衆生」とは他の誰でもない「私一人一人」のことである。
  • 本願は遠くにあるものではなく、「南無阿弥陀仏」という形で、我々が気づく以前から我々の中で常に働いている(行じている)事実そのものである。
  • 我々が本願に入るのではなく、元々本願の中に我々がいたのだと気づく(自覚する)のが信心である。

2. 「疑い」と「信心」の関係:消せない疑い

次に、兵頭氏は自身の心の中にある「疑い」が信心の妨げになっていると苦悩を吐露します。

兵頭氏の主張・疑問

  • 自分の心にある「疑い」をなくさなければ、本当の信心は得られないと考えている。
  • どうすればこの根深い疑いを消し去り、「本当の信心」を決定できるのかと悩んでいる。
  • 疑いを、自分で解決しなければならない問題だと捉え、自分自身を責めている。

安田師の答え

  • 疑いはなくそうとしてなくなるものではなく、人間が生きている限り持ち続ける自然なものである。
  • 信心は疑いを消すものではなく、疑いごと本願が包み込んでいくものである。むしろ深い疑いがあるからこそ、それを超えた本願の働きに気づかされるのだ。
  • 「信心を自分で決めよう、固めよう」とすること自体が、実は疑いの心の現れであり、自力の計らい(自分の力で何とかしようとする心)に他ならない。

3. 「心(計らい)」と「身(宿業)」:問題の根源はどこか

兵頭氏は、道理や理屈で納得できないと前に進めない、という知的な壁にぶつかっています。

兵頭氏の主張・疑問

  • 道理や理屈(心)で納得できなければ、救われない。自分の心で理解し、承知することが救いの前提条件だと考えている。
  • 自分の複雑な心を問題視し、それがまっすぐになれないことが信心を得られない原因だと感じている。

安田師の答え

  • 問題の根源は、変えようのない事実である「身(宿業の身)」よりも、常に計算し、自分に都合よく解釈しようとする「心(計らい)」の方にある。
  • 救いは理屈や予定(こうすればこうなるはずだ)の世界にはない。救いは、どうすることもできない罪深い宿業を抱えた「身」という事実そのものに、本願が直接働いているという現実にある。
  • 自分の心(理屈)に合わせるのではなく、本願の呼び声(南無阿弥陀仏)にただ耳を傾けることが重要である。

まとめ:兵頭氏の問題点と安田師が示す道

兵頭氏の根本的な問題点:「自力」からの脱却不能

兵頭氏の問題は、一貫して「自力」の立場から「他力」を理解しようとしている点に集約されます。彼は、信仰を自分の知性や努力で獲得すべき「対象」として捉えています。

  1. 知的な理解への固執「わかる」「納得する」「決める」といった理知的なプロセスを救いの前提にしており、自分の「心」を基準に仏法を計ろうとしています。これを安田師は「計らい」「予定」「自分に翻訳する」と鋭く指摘しています。
  2. 自己中心的な視点:常に「私がどうすればよいか」「私の疑いをどうするか」というように、主語が「私」になっています。自分の外に救いがあり、そこへ自分が到達しようとする構図から抜け出せずにいます。
  3. 疑いをなくすべきものという誤解:疑いを克服すべき敵とみなし、疑いのない清浄な心の状態を「信心」だと思い込んでいます。

安田師が示している道:180度の視点転換

安田師は、兵頭氏のその姿勢そのものが迷いの原因であると指摘し、視点の根本的な転換を促しています。

  1. 「自分の内」から「本願の側」へ:自分の心の中を探すのをやめよ、と説きます。救いの根拠は、揺れ動く自分の心にはなく、すでに成就して常に働き続けている南無阿弥陀仏(本願)」の側にあります。
  2. 疑いを抱えたまま聞く:疑いをなくす必要はない。疑い深く、賢しらで、罪深い「そういうあなた」をこそ目当てに本願は成就しているのだから、そのままで本願の呼び声を聞きなさい、と示しています。
  3. 「獲得」から「自覚」へ:信心は努力して「得る」ものではなく、すでに自分が本願の真っ只中にいるという事実に「気づく(自覚する)」ことです。その気づきさえも、本願の働きかけによって与えられます。

兵頭氏の状態についての分析:なぜ彼は苦しむのか?

1. 彼は第二十願の段階で行き詰まっているのか?

はい、その通りです。 安田師は対話の中で「それが二十願の自力の信心です。人間の心で信する限りは、二十願です」と明確に指摘しています。

  • 自分の力で信心を確立しようとしている:「本当の信心ということが決まらない」という言葉は、彼が自分の努力によって「信心」という状態を達成しようとしていることを示しており、これは第二十願の心と一致します。
  • 「計らい」が中心になっている:常に「どういうことか」と理屈で理解しようとし、救いの計画を立てています。これは他力を自分の知性でコントロールしようとする自力の「計らい」です。

2. 聞いて解決する問題か?

いいえ、単に知的な答えを聞いて解決する問題ではありません。
兵頭氏の問題は、知識不足ではなく、聞く姿勢そのものにあります。彼は答えを「自分の理屈に合うか」で判断し、自分を基準にしています。安田師が促しているのは、その「自分を基準にする」という在り方そのものが崩れ、ただ本願の呼びかけを聞く者へと転換させられることです。

3. なぜ苦しんでいるのか?

行き詰まっているが、自力を捨てることができないからです。
これが彼の苦しみの核心です。彼は「成就しないことはわかっています。しかし、成就しないものを捨てられない」と告白しています。自力を手放すことは、救いの主導権を完全に阿弥陀仏に明け渡すことを意味します。自分でコントロールできない領域に行くことへの恐れが、彼を自力にしがみつかせているのです。

結論:兵頭氏はどうすればいいか?

安田師が繰り返し示している道は、何かを「する」ことではなく、徹底的に「やめる」ことです。

  1. 「計らい」をやめる:どうすれば救われるのか、と自分の頭で考えることを一切やめ、ただ身を任せます。
  2. 視点を自分から本願へ移す:自分の心の状態を観察するのをやめ、「そんなあなたのままでよい」と呼びかけ続けている本願(南無阿弥陀仏)の方に耳を傾けます。
  3. 疑いをなくそうとしない:疑いはなくならないものと受け入れます。疑いを抱えた不完全な自分こそが、本願が目当てにした人間であると知ります。
  4. 「助かる」のではなく「助かっていた」と気づく:これから救いを獲得しようとするのではなく、自分が気づくずっと前から、すでに救いの真っ只中にいたという事実にただ驚き、頭を下げる(南無する)ことです。

兵頭氏に必要なのは、新たな行動や理解ではなく、自分の力で救いを計らうことを諦め、全面降伏すること。その時初めて、常に自分に働きかけていた本願の心が知らされるのだと、安田師は示しています。

参考文献:「信仰についての対話1」「信仰についての対話2」安田理深 著(大法輪閣

この記事では、分かりにくと感じる方のために補足記事を書いていますのでご覧ください。

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