安田理深師の言葉を読み解く:自力と他力の逆説的な対話
安田理深師と兵頭氏の対話の本の記事を書いてきましたが、今回は、四度会った相談のうちの「一会」の補足の記事です。
【要約】安田理深「信仰についての対話1」解説|自力(二十願)から他力(十八願)への道 - 月影
この安田理深師と兵頭氏の対話は、まさに仏法の核心に触れるものですが、専門的な言葉や逆説的な表現が多く、信心のない人にとっては非常に難解に感じられる部分があります。私も数回読みました。
兵頭氏の間違いは一貫して、自分の力(自力)で仏法を理解し、救いを達成しようとする「計らい(はからい)」の心にあります。安田師は、その間違いを打ち破るために、常識とは逆の言葉を多用します。
そこで、兵頭氏がどのような問いや言葉を発したときに、安田師の難解ながらも核心をつく言葉が引き出されたのか、対話形式で再構成し、丁寧な解説を加えます。
分かりにくい安田師の言葉と解説(対話形式)
1. 「決意」と「疑い」について
兵頭氏の問い
(自分の至らなさに気づき、何かに頼っていることには行き当たるのですが)しかし、本当の信心ということが決まらないのです
兵頭氏
安田師の答え
それは、決めようとする心が実は疑いであります、自力の心です
安田理深師
🤔 分かりやすい解説
兵頭氏は、自分の力で「よし、信じるぞ」と決意できないことに悩んでいます。しかし安田師は、その「決めよう」と努力する心こそが、自分を頼りにする「自力の心」であり、疑いの正体だと指摘します。なぜなら、その決意の主体は、常に揺れ動く不安定な「私(自我)」だからです。「私が決めた」という信心は、状況が悪くなれば「やっぱりダメかも」と揺らぎます。それは、自分の力を頼りにしている「自力の心」に他なりません。本当の信心とは、私が決めるものではなく、阿弥陀仏の働きによって、私の計らいが破られて「もうお任せするしかない」と頭が下がる形で与えられるものなのです。自分で掴み取るのではなく、与えられるものです。
2. 「絶望」と「信心」について
兵頭氏の問い
(自分に望みを絶つ、と。では)助からないということが絶望することで(すね)
兵頭氏
安田師の答え
人間は絶望できない。最後にはわらでも掴む。信心を得たことで絶望することができる
安田理深師
🤔 分かりやすい解説
これも常識とは逆です。普通は「絶望しているから、信心を得て希望を持ちたい」と考えます。しかし安田師の言う「絶望」とは、人生に対する悲観ではありません。「自分の力(自力)では、どうやっても自分を救うことはできない」という、自己の無力さに対する完全な諦めのことです。
人間は、最後の最後まで「まだ何かできるはずだ」と自分の可能性(最後の藁)に執着するため、完全には絶望しきれません。しかし、阿弥陀仏の光に照らされて「信心」をいただくと、自分のどうしようもなさがハッキリと知らされ、初めて「ああ、私には何もできなかったのか」と、自分自身に完全に絶望することができるのです。そして、その自分に絶望した場所こそが、100%阿弥陀仏にお任せできる救いの出発点となります。
3. 「助からない身」と「助かる身」について
兵頭氏の問い
どうして助からない身ということが知れたときにそれがそのまま助かる身ということですか。助からない身のままが助ける本願になるのですか
兵頭氏
安田師の答え
助からない身が同時に助かる身です。だから矛盾
安田理深師
🤔 分かりやすい解説
私たちは物事を時間軸で考えがちです。「今は助からない状態」→「修行や信心を積む」→「未来に助かる状態になる」というように。しかし安田師は、その考え方を否定します。「助からない身」と「助かる身」は、別々の状態ではなく、同じ場所で同時に成り立っていると言います。
これは、阿弥陀仏の本願が「自力で助かることのできない者(助からない身)こそを、必ず救う」という誓いだからです。「助からない」という性質は、救いの障害ではなく、救われるための唯一の資格なのです。
✨ 鍵と鍵穴の関係に似ています。鍵穴は「開いていない」という欠陥ではなく、鍵が働くための唯一の場所です。「開いていない状態(助からない身)」と「鍵を受け入れる状態(助かる身)」は、一つの鍵穴において同時に成立しているのです。
4. 「宿業の身」と「本願」について
兵頭氏の問い
(本願が立つ場所としての大地、というのは)大地といっても本願の大地(ということですね)
兵頭氏
安田師の答え
宿業の身が本願の大地です。そこに大空が開けてくる
安田理深師
🤔 分かりやすい解説
私たちは、自分の罪深い性質やどうしようもない現実(宿業の身)を、汚れた場所、逃げ出したい場所だと考えがちです。しかし安田師は、その絶望的な現実こそが、本願が成り立つためのしっかりとした「大地」なのだと言います。阿弥陀"仏の救い(天の光)は、理想的な清い場所ではなく、この泥だらけの現実(大地)にこそ降り注ぐのです。
🌱 植物の比喩で言えば、私たちは栄養豊富な暗い土(宿業の身)を嫌って、太陽の光(救い)だけを求めがちです。しかし、根を張るべき土がなければ、決して光を受け止めて成長することはできません。自分のどうしようもなさを大地としてしっかりと受け入れて初めて、本願の光が本当の恵みとして感じられるのです。