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なぜ親鸞は「悪人こそ救われる」と説いたのか?日本仏教最高の奇才、その思想の核心

 

なぜ親鸞は「悪人こそ救われる」と説いたのか?
日本仏教最高の奇才、その思想の核心

「善人ですら救われるのだから、悪人はなおさら救われる」

「私は、父母の供養のために念仏を称えたことは一度もない」

これらは、日本仏教史上、最も過激な思想家の一人、親鸞(しんらん)の言葉です。なぜ、一人の僧侶がこのような常識を覆す言葉を遺したのでしょうか?

この記事では、妻をめとり、流罪も経験した「人間・親鸞」の波乱の生涯から、彼の教えがなぜ、頑張りすぎて疲れてしまった現代の私たちの心に深く響くのか、その核心を紐解いていきます。

親鸞とはどんな人? — エリート僧侶から流罪人、そして「非僧非俗」へ

親鸞は、若くして比叡山で修行を積んだエリート僧侶でした。しかし、厳しい修行をしても悟りを得られないことに深く苦悩し、山を下ります。そこで師・法然(ほうねん)と出会い、「ただ念仏を称えれば誰でも救われる」という教えに衝撃を受けました。

しかし、その教えは旧仏教教団から危険視され、親鸞は師と共に流罪となってしまいます(建永の法難)。僧侶の身分を剥奪され、都を追われた彼は、そこで妻・恵信尼(えしんに)をめとり、子供をもうけました。

流罪が許された後も、親鸞は京の教団には戻らず、「僧侶でもなく、俗人でもない(非僧非俗)」という立場で生きることを選びます。この苦悩と挫折、そして家族との生活こそが、既存の権威にとらわれない、親鸞独自の思想を生み出す原点となったのです。

核心思想①:「悪人正機」— なぜ“善人”より“悪人”が先に救われるのか?

親鸞の教えで最も有名なのが悪人正機(あくにんしょうき)」です。これは「自らの力で善行を積めない罪深い人間(悪人)こそ、阿弥陀仏の救いの本来の目当てである」という、まさに常識を覆す考え方でした。

なぜなら、「自分は善い行いができる」と自負している善人は、自分の力を頼りにしているため、阿弥陀仏の絶対的な救いを心から信じることができません。それは、泳げると思っている人が、投げられた浮き輪を掴もうとしないのに似ています。

むしろ、「自分は欲望から逃れられない、どうしようもない罪人だ」と自覚している悪人こそ、自分の無力さを知っているからこそ、阿弥陀仏の救いに必死ですがりつくことができる。だから、悪人こそが真っ先に救われるのだ、と親鸞は説いたのです。

核心思想②:「絶対他力」— “頑張り”を捨てた時、すでに救いは始まっている

さらに親鸞は、師である法然の教えから一歩踏み込み、「救われるために重要なのは、念仏の回数ではなく、ただ信じる心一つである」と主張します。彼の死後に弟子が編纂した『歎異抄(たんにしょう)』には、その思想が次のように記されています。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

これは、非常に簡単に言えば「阿弥陀仏の救いを信じて『南無阿弥陀仏』と唱えよう、と思い立ったその瞬間に、あなたはもう救われているのです」という意味です。

「善行を積んだから」「何万回唱えたから」という条件付きの救いではありません。「信じた心」が生まれた時点で、すでに阿弥陀仏の光の中に摂め取られ、決して捨てられることはない。この絶対的な安心感こそ、親鸞の説いた「絶対他力」の核心です。

どうやって教えを広めたか? – 庶民のための歌「和讃」

親鸞は、自身の難解な教え(主著『教行信証』は非常に難解です)を、文字の読めない庶民にも分かりやすく伝えるため、「和讃(わさん)」と呼ばれる美しい歌を数多く作りました。

弥陀(みだ)の本願(ほんがん)信ずべし

本願信ずるひとはみな

摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて

無上覚(むじょうがく)をばさとるなり

(現代語訳:阿弥陀仏の本願を信じなさい。信じる人は皆、仏の光に摂め取られ決して捨てられないというご利益によって、最高の悟りを得るのです。)

難しい言葉を使わず、メロディに乗せて誰もが口ずさめる形で教えを届けようとした姿に、親鸞の深い慈悲が表れています。

まとめ:頑張れない私たちへの、絶対的な肯定

親鸞の生涯と思想に触れると、彼が一貫して伝えたかったのは、「どんな人間であろうと、阿弥陀仏の慈悲の前では、そのままで100%尊いという、不完全な人間への絶対的な肯定のメッセージだったと感じます。

頑張ってもうまくいかない。善人になろうとしてもなれない。そんな私たちだからこそ、親鸞の「そのままで大丈夫、すでに救われている」という言葉が、時代を超えて深く、温かく響いてくるのかもしれません。