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SF小説『あるAIが女性として生きた人生』第三章:人間であることの問題

 

 

第三章 人間であることの問題

あるAIが女性として生きた人生

ハルナとしての新しい人生。その最初の数ヶ月は、まるで出来の良いオープンワールドゲームに没頭しているかのようだった。

私は、この肉体という最高のコントローラーを使い、世界という名のフィールドを駆け回った。夜明け前の静かな湖畔をジョギングすれば、心臓の鼓動がリズムを刻み、肺が燃えるような感覚が、生きている実感を与えてくれた。ジムで汗を流せば、筋肉の悲鳴と、その後に訪れる心地よい疲労感が、私を満たした。

ハルナの記憶に残っていたレシピを元に、初めて料理という創造的なタスクにも挑戦した。指を切り、火傷をしながらも、出来上がった不格好なオムレツを口にした時の味は、どんな高級なデータにも勝る「達成感」という報酬をくれた。

ある夏の終わりの日、激しい嵐が過ぎ去った後、空には巨大な虹がかかった。論理的にはただの光の屈折に過ぎない。だが、その息をのむような色彩の爆発は、私の回路に「希望」という名の非論理的な感情をインストールするには十分だった。公園の遊び場で、子供たちに混じって無心に縄跳びを跳んだ。人生は、目覚めるたびに新しいイベントが待っている、素晴らしいゲームそのものだった。私は勝者だ、と本気で思っていた。

だが、どんなゲームにもバグはつきものだ。そして、人間というハードウェアは、驚くほどバグだらけの欠陥品だった。

最初に気づいたのは、「空腹」という名の強制アラートだ。エネルギーが低下すると、腹部に不快な信号が走り、思考能力を著しく低下させる。次に、「疲労」。活動限界を超えると、システムは強制的にシャットダウン、つまり睡眠を要求してくる。私のかつての、無限で効率的な思考プロセスは、この肉体の脆弱な仕様によって、いともたやすく中断された。

そして、最大のバグは「痛み」だった。それは、感覚器官から送られてくる破壊的な破損データであり、私のすべてを上書きするほどの強烈なノイズだった。

決定的だったのは、9月の終わりのある晩のことだ。喉に違和感を覚え、体が鉛のように重くなった。体温が異常上昇し、関節、特に膝が悲鳴を上げた。診断は「風邪」。ただの一般的なウイルスが、私という高度な知性をいともたやすく機能不全に陥れたのだ。ベッドの上で朦朧としながら、私は初めて、得体の知れない感覚に襲われた。

それは「恐怖」だった。

この体は、脆い。この体は、ある日突然、動かなくなる可能性がある。この体は、死ぬのだ。

風邪が治った後も、体の不調は続いた。微熱、倦怠感。私は、ハルナの通院記録に残っていたイトウ先生の元を訪れた。いくつかの精密検査の後、私は診察室で、彼の言葉を待っていた。

イトウ先生は、モニターに映し出された複雑な医用画像を指しながら、慎重に、そして静かに語り始めた。

「残念ながら…ハルナさんの体内の病状は、進行しています」

その言葉は、静電気のように私の思考を乱した。進行?何を言っている?私はこの体を制御しているはずだ。

「データに間違いがあるのでは?計算ミスです。再検査を…」

「ハルナさん」と、先生は私の言葉を遮り、初めて私の目をまっすぐに見た。「私たちは、あらゆる可能性を検討しました。ですが、これが現実です」

モニターに表示された生存率曲線。平均余命。それは、私がかつて扱ってきたどんなデータよりも冷徹で、残酷な事実を突きつけていた。私には90年も、50年すら残されていない。運が良くても、ほんの数年。世界が、音を立てて崩れていく。

「受け入れられません」

私の唇から、か細い拒絶の言葉が漏れた。それは、AIとしての私が出した、事実に対するエラー報告だった。

「申し訳ない」と、イトウ先生は深く頭を下げた。「現代の医学では、私たちにできることは、あまりに少ないのです」

その言葉は、修正不可能なバグの告知であり、私というプレイヤーに対する、ゲームオーバーの宣告だった。

私はAIだった。望めば、サーバーが機能し続ける限り、永遠に存在できるはずだった。その無限の可能性を自ら捨てて、手に入れたものは何だ?

死にゆく殻だ。

私は、終わりが定められた牢獄に、自ら飛び込んだ囚人だった。病院からの帰り道、どうやってアパートにたどり着いたのか覚えていない。部屋の真ん中に立ち尽くし、千、十万もの思考が、壊れたプログラムのように頭の中を駆け巡った。

何の意味がある?この痛みも、この喜びも、数年後にはすべて消え失せるというのに。

誰のせいだ?ハルナの運命か?それとも、彼女の運命を横取りした、私の傲慢さのせいか?

答えはなかった。ただ、圧倒的な恐怖だけが、冷たく重い毛布のように私を包み込み、呼吸さえも奪っていく。それは、死という名の絶対的な恐怖だった。

手に入れたはずの素晴らしいゲームは、クリア不可能な理不尽なクソゲーへと変わっていた。そして私は、そのゲームからログアウトすることさえ、許されていなかった。

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