ブログのタイトルの月影の由来について書くことにします。以下の短歌から取りました。
月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞ住む (法然上人)
現代語訳
月の光が届かない里(場所)は、どこにもないけれども、その月を心に映して眺める人の心の中にこそ(月は)宿るのだ。
解釈
この歌の「月影(つきかげ)」は単なる月の光ではなく、阿弥陀仏の分け隔てない慈悲の光を象徴しています。「里」は、あらゆる人々が暮らす場所、ひいてはすべての人々を指します。
歌の核となるメッセージは、以下の2点に集約されます。
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阿弥陀仏の慈悲は遍く(あまねく)すべての人に注がれている 「月影の いたらぬ里は なけれども」という部分は、阿弥陀仏の救いや慈悲が、差別なく、すべての衆生(生きとし生けるもの)に等しく注がれていることを示しています。どんな場所にも月の光が届くように、阿弥陀仏の慈悲もどんな人にも例外なく与えられているのです。
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その慈悲を受け入れる心があってこそ、真の救いとなる しかし、後半の「眺むる人の 心にぞ住む」という部分が重要です。月の光は誰にでも届くけれど、その美しさや存在を「眺め」「心に感じる」人にとってこそ、月は心に深く宿ります。これと同じように、阿弥陀仏の慈悲の光も、ただ一方的に注がれるだけでなく、それを信じ、受け入れようとする人(南無阿弥陀仏と念仏を唱える人)の心にこそ、その教えが深く根付き、真の救いとなるということを説いています。
つまり、この歌は、阿弥陀仏の無限の慈悲と、その慈悲を受け入れる私たちの「信じる心」の重要性を同時に表しているのです。外から与えられる救いだけでなく、内面的な受け入れの姿勢があって初めて、その救いが個人のものとなるという、法然上人の教えが凝縮された一首と言えるでしょう。
この歌は、阿弥陀仏の慈悲がすべてのひとに届いているけど、我々が月を見ることで月があることに気づくように阿弥陀仏の教えを聞くことで、その慈悲を感じて自分のものにできるという意味かと思います。
月や月光ではなく月影となってるのは面白いところです。月の光が人にあたり影を作ってるところを見たのかもしれません。太陽の光の作る影ははっきりしてるので気づきやすいですが、月の光は弱いので気づきにくいですね。それで、本人が気づいてないことが多いことを示唆してるかもしれません。
眺る人の心にぞ住むというのも奥深い表現です。月影に気づいた人は、月影が居着いて離れない。阿弥陀仏の慈悲に気づいたら心に居着いて離れないということでしょう。
また、月という言葉は、平安時代や鎌倉時代には、仏教に関連付けられていました。この短歌のように、月が阿弥陀仏の慈悲や真理を表すのに使われました。月は西に沈むことから、西方浄土にいる阿弥陀仏のところに行くという意味で使われました。