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蓮如上人はなぜ女性に説いたか?「後生」と「平生業成」の真実

 

蓮如上人はなぜ女性に語りかけたのか? - 『御文章』「いまの世章のこころ」を読む

はじめに:苦悩する「いまの世」に響く言葉

室町時代浄土真宗を広めた蓮如上人。その教えをまとめた手紙『御文章(ごぶんしょう)』は、まるで私たちに直接語りかけるような温かさがあります。

中でも「いまの世章のこころ」は、「今の世にあらん女人は」と、特に当時の女性たちに強く呼びかけた一節です。

御文章の原文と現代語訳ここをクリックすると詳細が開きます

いまの世章のこころ(四帖目十通)

今の世にあらん女人は、みなみなこころを一つにして阿弥陀如来をふかくたのみたて まつるべし。そのほかにはいづれの法を信ずといふとも、後生のたすかるといふこと ごしよう ゆめゆめあるべからずとおもふべし。されば弥陀をばなにとやうにたのみ、また後生 をばなにとねがふべきぞといふに、なにのわづらひもなく、ただ一心に弥陀をたのみ、 後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人をば、かならず御たすけあらんことは、 さらさらつゆほども疑あるべからざるものなり。このうへには、はや、しかと御たす けあるべきことのありがたさよとおもひて、仏恩 ぶつとんほうしゃ 仏恩報謝のために念仏申すべきばかりな り。

(『註釈版聖典』一一八一~二頁)

【現代語訳】

末法の五濁悪世を生きる女人は、一人残らず、ただひとすじに阿弥陀如来一仏をあてたよ りにさせていただきましょう。この如来の悲願以外の他の聖道自力の道を信じたとしても、 後生のたすかる道は、決してあるべきことでないと思うからであります。それでは弥陀をど のようにたのみ、また後生をなんと願うべきなのでしょうか。それについては、何の心配も なく、ただ疑いなく弥陀如来の仰せにまかせて、後生たすけたまへとあてたよりにする人は, 必ず弥陀如来は、摂取して捨てたまわぬことを、決して疑う必要はありません。この上は、 もはや既に、間違いなくおたすけくださることのありがたさよと思って、仏恩報謝のお念仏 を申させていただくばかりであります。

なぜ上人は、あえて「女性」に焦点を当てたのでしょうか。そして、そこで説かれる「後生(ごしょう)たすけたまへ」という救いの本当の意味とは何でしょうか。この記事で紐解いていきます。

苦しい体験が生んだ「女人の救い」

蓮如上人が特に女性の救いについて御文章で21通にもわたり繰り返し説かれています。この章もその一つです。背景については以下の記事をご覧ください。

【解説】蓮如の「一切女人章」はなぜ女性を救ったのか?罪を希望に変えた逆転の論理 - 月影

さらに次のようなご自身の壮絶な人生体験があります。

1. 幼き日の母との別れ

上人はわずか六歳で、父親『存如(ぞんにょ)』が名家から妻をもらうことになり、蓮如の将来のため生母は家を出ました。母の悲しみや苦悩への思いが、苦しい立場にある女性たちへの深い共感の原点となったと考えられます「ねがはくは児の御一代に聖人の御一流を再興したまへ」(「蓮如上人遺徳記」)。という生母の言葉が残っています

2. 困窮を極めた家族への思い

また、当時の本願寺は非常に貧しく、「親子で重湯のようなおかゆを食した」り、「わが妻子ほど不便なることなし」とご自身が吐露されたりするほどでした。

如来の目には、地獄に堕ちてよいものは、一人もいない」。ご自身の辛い体験を通じて開かれた阿弥陀の慈悲の眼こそが、「女人の救い」という『御文章』となって花開いたのです。

「後生たすけたまへ」と、ただ一心に

上人は、苦しむ女性たちに対し、非常に分かりやすい言葉で救いの道を示されます。

今の世にあらん女人は、みなみなこころを一つにして阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるべし。...

(本文)

難しい修行や学問は一切いらない。ただ心を一つにして阿弥陀如来だけを深く頼みなさい、と断言されます。

様々な制約の中で救いから疎外されがちだった当時の女性たちに、「あれこれ悩まず、ただ“後生たすけたまへ”と頼むだけで、必ず助けられる」と保証されたのです。

「後生」vs「平生」? 蓮如教学への批判と再解釈

しかし、この「後生(死後の救い)」の強調が、後に批判の対象ともなりました。

蓮如上人は『後生の一大事』を強調するあまり、親鸞聖人の『平生業成(へいぜいごうじょう)』(生きている“今”救いが決定する)という教えを軽視したのではないか」というものです。

「救いは死後にある」という考えが広まると、現世の差別などの社会問題(平生の課題)から目をそむけることにつながったのでは、という厳しい指摘もあります。

「後生の一大事」の真意:「今、ここ」での実存的解決

蓮如上人の説く「後生の一大事」とは、単なる「死後の不安」ではありません。それは、「私は何のために生き、どこへ行くのか」という、人間の根源的な「自己の問題」そのものを指します 。

この問題は、「今、ここ」で解決されねばならない大問題です。私たちは普段、「まだまだ時間がある」(有後心)と問題を先送りにしがちですが、死を自分の足元の問題(無後心)として自覚した時、初めて真実の救いを求めます 。

つまり蓮如上人は、「後生」という切迫感を持たせる言葉(伝道の方法)を用いて、私たちに「“今”救われること(平生業成)」の緊急性を誰よりも強く説いたのです。

「ふかくたのむ」とは、すべてを“まかせる”こと

では、救いの要である「信心」とは何でしょうか。上人は「阿弥陀如来ふかくたのみたてまつるべし」 と表現されます。

これは、私たちが「一生懸命にお願いする」ことではありません。

むしろ逆で、自分の力(自力)では到底救われないという限界を知り、阿弥陀如来の「引き受けた、安心せよ、必ず救う」という仰せ(よび声)に、すべてを「そのまま、まかせる」ことです。阿弥陀如来頼むではなく阿弥陀如来頼むとなっています。これは全て、阿弥陀如来のすべての人を絶対に救うという誓いに基づいています。

 

まとめ:平生業成から「報恩」の社会倫理へ

蓮如上人が女性たちに語りかけたメッセージは、苦悩の体験から生まれた、誰にでも開かれた救いの道でした。

  • なぜ女性に説いたか?:上人ご自身の苦しい体験から、阿弥陀の慈悲が最も苦しむ人々にこそ向けられていると知らされたからです。
  • 「後生」と「平生」の関係は?:「後生」とは「今この瞬間に解決すべき私の大問題」。その切迫感こそが「今、救われる(平生業成)」ことへと導きます。
  • 「信じる」とは?:私たちが力むのではなく、阿弥陀如来の「必ず救う」という仰せに、すべてを「まかせる」ことです。

「今、ここで救われた」(平生業成)という絶対的な安心を得た時、私たちの心には自然と「ありがとう」という「報恩(感謝)」の心が生まれます。

この感謝の心こそが、日々の生活を豊かにし、私たちが現世で向き合うべき課題への「新しき息吹」となっていくのです。

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