「生起本末」を聞くということ
他力回向の慈悲に抱かれて
浄土真宗の教えを仰ぐなかで、「仏願の生起本末を知る」ことと「他力回向の話を聞く」ということを聞きます。これらの言葉の意味を考えてみます。、これらは表現こそ違いますが、指し示している真実は一つ、すなわち「阿弥陀仏の救いそのもの」です。
一、仏願の生起本末:法蔵菩薩の願い
「生起本末」とは、物語の始まりから終わりまでを意味します。それは、遥か古の昔、法蔵菩薩という一人の修行者が、私たちの苦しみをご覧になったところから始まります。
生起(なぜ願われたのか)
法蔵菩薩は、自力ではどうしても煩悩を断ち切れず、迷いの世界から抜け出せない私を見て、「この者を救わずにはおれない」と、たまらぬ悲しみを抱かれました。これが「生起」、すなわち願いの起こりです。
本末(いかにして完成されたか)
そして、五劫という気の遠くなるような思惟(しゆい)を経て、四十八の願いを立て、永劫の修行を完遂されました。その結果、私たちはただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけで救われるという、完璧な仕組みが完成したのです。これが「本末」、すなわち願いの成就でございます。
二、他力回向の話を聞く:仏様からの贈り物
では、「他力回向」とは何でしょうか。それは、仏様が完成されたその功徳(南無阿弥陀仏)を、私たちに「そのまま差し上げる」ということです。これを「聞き届ける」のが聞法(もんぽう)の要です。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。 「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。 親鸞聖人 一念多念証文より
親鸞聖人が教えられるように、仏様がなぜ願い(48願とくに第18願)、どう修行されたかという「生起本末」を詳しく聞くことは、そのまま「これほどまでに私のために尽くしてくださったのか」と、仏様の回向の心を受け取ることなのです。
三、信心獲得にどう役立つか
「信心獲得」とは、何か特別な能力を得ることではありません。自分自身の計らいを捨て、「仏様にお任せいたします」と頷くことです。生起本末を深く聞くほどに、自分がいかに救われがたい存在であるか(機)と、それを見捨てない仏様がいかに尊いか(法)が一つになり、疑いの心は晴れてまいります。
つまり、生起本末を聞くことは、信心をいただくための唯一の門であり、その内容こそが他力回向の真実なのです。
しかるに経(きょう)に言(のたま)わく、「聞(もん)」というは、衆生(しゅじょう)、仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて、疑心(ぎしん)あることなきを、これを聞(もん)というなり。 「信心」というは、すなわち本願力回向(ほんがんりきえこう)の信心なり、と言(え)り。 親鸞聖人 教行信証より
現代語解釈:
- 「聞」とは: 単に音を聞くことではなく、阿弥陀仏の救いの歴史(生起本末)を聞いて、「疑いの心がなくなること」を指します。
- 「信心」とは: 私たちが作り出す心ではなく、阿弥陀仏の本願の力によって「与えられた(回向された)心」であると明示されています。
参考ウエブサイト
「聞く」とは、単に言葉を知識として蓄えることではありません。仏様の「あなたを必ず救う」という呼び声が、私の胸に届くことです。私たちは、今日もまた、その温かな呼び声に耳を傾けてまいりましょう。