私たちは「縁起」の中で生かされている:阿弥陀如来の「増上縁」と念仏の救い
「自分の力で生きている」――私たちは日々、そう錯覚してしまいがちです。しかし、少し立ち止まって考えてみると、自分の心臓を自分の意思で動かしているわけでもなく、今日食べるものも、太陽の光や雨、数えきれない人々の労力によってもたらされています。
仏教ではこれを「縁起(えんぎ)」と呼びます。すべてのものは繋がり合い、無数の原因と条件によって成り立っている。私たちは決して一人で生きているのではなく、この広大な「縁起」の海の中で「生かされている」存在なのです。
迷いの連鎖を断ち切る「増上縁(ぞうじょうえん)」
しかし、この「縁起」は時に残酷です。病や老い、愛する人との別れなど、私たちの思い通りにならない苦しみもまた、縁起の法則によってもたらされます。自分の力だけでは、この迷いと苦しみの連鎖から抜け出すことはできません。
そこで、私たちのために立ち上がってくださったのが阿弥陀如来(あみだにょらい)です。
阿弥陀如来は、冷たい宇宙の法則として存在しているわけではありません。縁起の海で溺れ苦しむ私たちを哀れみ、その海へ自ら飛び込んで来られる生きた仏様です。そして、私たちが抱える過去からの罪や迷いをすべて打ち破り、間違いなく極楽浄土へと引き上げる「絶対無比の強いお力」として働きかけてくださいます。
この、他のどんな縁よりも勝れた、仏の絶対的な救いの働きを「増上縁(ぞうじょうえん)」と呼びます。私たちはただ自然の法則の中で生かされているだけでなく、阿弥陀如来の「決して見捨てない」という温かな増上縁に抱きかかえられ、生かされているのです。
用語解説:増上縁(ぞうじょうえん)とは?
「増上縁」という言葉は、法然上人が深く尊敬し、浄土教の絶対的な拠り所とした中国・唐の時代の高僧、善導大師(ぜんどうだいし)の教えに由来します。
善導大師は、浄土教の根本経典の一つである『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』を読み解く中で、お念仏を称える私たちと阿弥陀如来との間に結ばれる尊い繋がりを、「三縁(さんえん)」という三つの段階に分けて説明しました。増上縁は、その三つ目にあたります。
- ① 親縁(しんえん)
私たちが阿弥陀仏を想い、口に念仏を称えれば、仏もすぐにその声を聞き、私たちのことを想ってくださる。親が子を慈しむように、仏と私たちの心と心がぴったりと寄り添い、決して離れない「親密なご縁」です。 - ② 近縁(ごんえん)
私たちが「阿弥陀仏にお逢いしたい」と願えば、仏はすぐ目の前にそのお姿を現してくださる。私たちと仏の間に少しの距離もないという「身近なご縁」です。 - ③ 増上縁(ぞうじょうえん)
「増上」とは、他のあらゆるものを圧倒し、飛び抜けて勝れている強い力のことです。私たちが過去から背負っている無数の罪や迷い(悪業)すらも、阿弥陀仏の圧倒的なお力(本願力)がすべて打ち砕いてくださいます。そして命の終わる時には、いかなる障りも寄せ付けず、間違いなく極楽浄土へと引き上げてくださる。この「絶対無比の強い救いのお働き」を増上縁と呼びます。
※東京・芝にある徳川家の菩提寺「増上寺(正式名称:三縁山 増上寺)」の名前も、この善導大師が説かれた「三縁」と「増上縁」の教えから名付けられています。
芝の「増上寺」と徳川家康の願い
東京・芝にある徳川家の菩提寺として有名な「増上寺」。この名前も、実はこの教えから来ています。
正式名称を「三縁山 広度院 増上寺」といい、浄土宗の開祖・法然上人が依りどころとした善導大師の教えにある「阿弥陀如来の絶対の救いの力=増上縁」に由来しています。
天下人である徳川家康公がこの寺を手厚く保護したことも、仏の目から見れば「世の多くの人々を念仏の教えへと導くための、歴史を通じた大いなる縁(手立て)」であったと言えるでしょう。
権力者の書状や歴史の動きすらも、阿弥陀如来が私たちを救い取るための「増上縁」として働きかけた結果なのです。徳川家康は、恵信僧都源信の作とも伝わる阿弥陀如来像を持って戦に臨んだそうです。その仏像(黒本尊)は現在増上寺に安置されており、勝運、災難除けとされています。
ただ「南無阿弥陀仏」と称えることで
では、すべての人に降り注いでいるこの「増上縁」を、私たちはどのように受け取ればよいのでしょうか。難しい修行や、心を澄ませる瞑想が必要なのでしょうか。
いいえ、法然上人は「ただ、南無阿弥陀仏と称えなさい」と教えられました。
阿弥陀如来の慈悲の光は、空に浮かぶ月のように、どんな場所にも等しく降り注いでいます。しかし、私たちが自分の殻に閉じこもり、うつむいたままでは、その光を受け取ることはできません。「南無阿弥陀仏」と声に出して称えることは、自ら顔を上げ、仏の光を仰ぎ見る「生きた行い」そのものです。
- 自分の力(自力)で悟ろうとするのをやめ、仏の力(他力)にお任せする。
- 仏が「呼べば必ず救う」と誓われた通りに、ただ声に出して称える。
私たちが念仏を称えたその時、阿弥陀如来の「増上縁」が私たちの心にしっかりと結ばれます。そして、この人生を「生かされている」という感謝と共に全うしたのち、間違いなく清らかな極楽浄土へと迎え取られるのです。
もし今日、何か不安や至らなさを感じることがあったなら、どうぞ安心してお念仏を称えてみてください。あなたのその声の中に、仏の温かな光はすでに宿っているのですから。