後生がたすかるという言葉の真意
――「人生の意味」と「他力の安心」を巡って
蓮如上人の御文章を読み解く中で、しばしば目に飛び込んでくるのが「後生の一大事」という言葉です。当流聖人章のこころに関する宇野行信師の文章によれば、
「もしも、この後生が解決できないと、人生そのものが意味をなくしてしまうことになります。」聖典セミナー御文章
とさえ記されています。
人生の意味という大事な言葉をこのように使うことに違和感があり、表現としてそう言い切っていいのかなと思いました。フランクルの人生の意味に関する著作で、ほとんどの人が、人生の意味を求めていることを知っていましたので、その言葉の重大さを考えていました。
一見すると、私たちの日常の営みや、それぞれの道で精一杯生きる姿を突き放すように感じて、この言葉は強すぎるのではないかと思いました。それぞれの人がそれぞれのやりたいことを自由に精一杯生きていくことが意味があるのではないかと思ったのです。ただ、言葉の強さにとらわれていて、その言葉では表せない真意があると気づきました。いわゆる、不依文依義(ふいもんいぎ)〜言葉によらず意味によりなさいという意味で、禅宗では不立文字です。その真意を慮ってみると、そこには深い慈悲と「他力の安心」が横たわっていることに気づきました。
この後生に関する御文章の当流聖人章の心の現代語訳(聖典セミナー御文章より)を乗せていますのでご覧ください。
御文章の当流聖人章 五帖目十八通
当流の親鸞聖人がお勧めくださいますところの安心というのは、とかく凡夫の計らいをしないことであります。まず第一に、罪深くあさましいこの身をば気にもかけず、諸他の雑行雑修自力の心を捨てさり、ただひとすじにたすけたまう阿弥陀如来さまのお計らいにまかせて、阿弥陀さま一仏をたよりにするだけであります。
はっきり端的に申しますと、阿弥陀さま一仏をたよりとした者は、十人は十人ながら百人は百人ながら一人としてみなもらさず、おさめとってくださいます。このことは、疑いようのないことであります。このように心得た人を信心の行者と申すのです。
さて、信心決定した上においては、我身の往生の定まったことのうれしさありがたさを思うときは、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と仏恩報謝のお念仏を称えさせていただきましょう。
なぜ「意味を失う」とまで言うのか
「後生の解決がなければ無意味」というのは、私たちの人生が「一回限りで、いつ終わるかわからない」という現実を直視しているからでしょう。どれほど人生を思い通りに歩めたとしても、死に直面した時に「これ一つに出遇えば満足して死んでいける」という依り所がなければ、人生は最終的に虚しさに飲み込まれてしまう。その取り返しのつかない事態を、蓮如上人は「一大事」と呼びました。
「死んでから浄土に生まれるか、浄土をとりはずすかは一大事となります。そこで後生の一大事と表現されたのであります」
この言葉は、脅しではありません。むしろ「あなたの歩んできた精一杯の人生を、最後に虚しさで終わらせたくない」という、如来の願いの裏返しなのです。
「計らい」を捨てて任せるということ
蓮如上人の語られた「後生の解決」とは、死後の心配をすることではなく、「今、信心をいただくこと」に他なりません。 死後のことは自分の計らいを捨て、阿弥陀如来の回向(如来から与えられる信心)に全てを任せる。 その瞬間に、死後の問題は解決済みとなり、私たちは「百人は百人ながら間違いなく浄土へ往生する」身となると蓮如上人は語ります。
その上で、それぞれの人生の道を自分の好きなように自由自在に安心して進んでいくことが大事だと思います。
それぞれの道、その足元の土台
後生を如来に任せきったからといって、この世がどうでもよくなるわけではありません。むしろ、後生の解決の場こそ、この世にあるのだと蓮如上人は説かれます。
いつ何が起こるかわからないこの世界であるからこそ、「絶対に救われる」という安心感という土台を足元に敷く。 それがあるからこそ、私たちはそれぞれの道を、何にも脅かされることなく、精一杯歩むことができるようになります。救われる喜び(仏恩)を仰いでお念仏を申す暮らしこそが、人生を真に確かなものにするのです。参考までに無量寿経の一説に関して書いたブログ記事を載せておきます。
結びに、現在の私の心境を歌った和歌を載せます。
ただ頼め 計らい捨てて 一筋に 私のための 弥陀の誓願