蓮如上人『御命日章』に学ぶ——「不請」の参拝に宿る如来の慈悲
はじめに:親鸞聖人のご命日と蓮如上人
浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、弘長2年(1262年)11月28日に往生を遂げられました。この大切な日を縁として、蓮如上人が当時の門徒たちへ送ったお手紙が御文章の「御命日章(三帖目九通)」です。
当時、吉崎などの拠点には多くの門徒が集まっていましたが、その中には「ただ参拝すること自体が目的」になってしまっている人々もいました。蓮如上人は、そのような現状を厳しくも温かい眼差しで見つめておられました。

御命日章の心の現代語訳(御文章聖典:本願寺出版より)
【現代語訳】
今日は親鸞聖人の御命日ということで、本当に報恩謝徳の志を運ばない人は少ないのです。けれど、その志を運ぶ人たちが、お互いに心得ておかなければならないことは、他力真実の信心をいただいていない未安心の人たちが、聖人の御命日だからといって、今日に限って御法座に参拝してきて場を占めることだけで、それが真宗の肝要だと思っているようでは、どうして聖人の御意にかなうことができましょうか。 でも、自分の在所にとどまって報謝の思いのない人より、いやいやながらでも聖人の御影に参拝して、法座に出席することは大いに結構なことでありましょう。毎月の二十八日のたびごとに、必ず参拝しようと思っている方々のなかで、未安心の人は、日頃の心をすてて少しでも早く本願他力の信心をいただいて、わが身の今度の報土往生を決定するそのことが、まことに親鸞聖人の報恩謝徳の志にもぴったりかなうことであります。そのことが、また、自身の浄土往生が治定することわりでもあります。
「不請(ふしょう)」をどう受け止めるか
この章で私が気になったのが、次の記述です。
(原文)「わが在所にありて報謝のいとなみをもはこばざらんひとは、不請(ふしょう)にも出仕をいたしてもよろしかるべきか」
(現代語訳)でも、自分の在所にとどまって報謝の思いのない人より、いやいやながらでも聖人の御影に参拝して、法座に出席することは大いに結構なことでありましょう。
ここでの「不請」には、主に二つのニュアンスが含まれています。
- 内面的な消極性: 「いやいやながら」「気が進まない」状態で参拝すること。
- 招かれざる縁: 自ら「聞きたい」と願う前に、すでに仏法の方から招かれているという「不請之友」の精神。
言葉の深意:漢和辞典から見る「不請」の二面性
「不請(ふしょう)にも出仕をいたす」という言葉をより深く理解するために、漢和辞典で「請」という字の語義を確認してみましょう。そこには、たくさんの意味がありますが、私たちの内面と如来さまのはたらきの両面を象徴する、興味深い二つの意味が見て取れます。(旺文社漢和辞典より)
「請」が持つ二つの重要な語義
- 意味 ①(イ):ねがう(懇請・申請)
自ら進んで「〜したい」と願い、求めること。 - 意味 ①(オ):人をまねく(請客)
相手を呼び寄せる、招待すること。
なぜ「願わず、招かれず」でも良いのか
蓮如上人が「不請(請わず)」という言葉を用いた背景には、これら二つの意味の否定、すなわち「自ら願う心がなく(不請=嫌々ながら)」、かつ「内面の歓喜に招かれたわけでもない」という凡夫のありのままの姿が投影されています。
しかし、浄土真宗において「不請」は決して否定的なだけの言葉ではありません。仏教には「不請之友(ふしょうのとも)」という言葉があり、これは菩薩が人々から請われる前に、自ら進んで救いの手を差し伸べる慈悲の姿を指します。
つまり、私たちが「自分から願ったわけではない(不請)」という消極的な心で法座に座っていたとしても、その事実こそが、如来さまが「招かれざる友」として私たちを呼び寄せ、仏縁の中に繋ぎ止めてくださっている「阿弥陀如来の本願力のはたらき」の証左であると読み解くことができるのです。
「家にいる人」と「参拝する人」の比較
蓮如上人は、自宅で何もしないでいる人よりも、たとえ「いやいやながら」であっても法座に参拝する方が「大いに結構なことだ」と説かれました。
これは人間としての優劣を比較しているのではなく、「仏法に出遇う縁(チャンス)」があるかないかを比較しています。法座という「今現在説法」が行われている場に身を置くことこそが、救いへの唯一の入り口だからです。つまり、聞法こそが救いに必要な信心を得る唯一の道です。
注、「自分の在所にとどまって報謝の思いのない人でも、いやいやながらでも聖人の御影に参拝して、法座に出席することは大いに結構なことでありましょう。」と読むことも可能でしょう。
すべては「他力本願」のはたらき
私たちが「嫌々ながらでも法座に足を運ぶ」という事実は、一見すると自分の意志のように見えます。しかし、真宗の教えでは、その背後に阿弥陀如来の強烈な「呼びかけ(本願力)」の働きがあると考えます。
日頃は念仏を忘れている者さえも、ご命日という縁を通して法座に引き寄せる。そのはたらきこそが他力であり、そこで初めて教えを聴聞し、「信心を決定する」道が開かれるのです。
結びに:報恩講の真意
蓮如上人が伝えたかったのは、形だけの参拝を奨励することではありません。参拝を縁として「本願真実の他力信心をとりて」、自らの往生を決定することこそが、親鸞聖人へのまことの恩返し(報恩謝徳)になるということです 。そう考えることが聴聞のきっかけになるでしょう。
私たちが今、この教えに触れていること自体が、すでに如来さまに招かれた「不請」の縁の中にあるのかもしれません。