自力の計らいが間に合わない
一蓮院秀存和上の教えから学ぶ「そのまま」の救い
「わかったつもり」を打ち砕く和上の「イヤ、違う」
浄土真宗の歴史の中で、一蓮院秀存和上(1787~1860)という方がおられました。
「浄土真宗の要(かなめ)は、そのままのお助けじゃ」
と話したそうです。彼のもとを訪れた門徒たちが、
「このままのお助けですね」
と納得して答えると、和上は決まってこう返したと言います。
「違うぞ、そのままのお助けじゃ」
言葉の上では正しいはずの門徒の答えを、なぜ和上は否定したのでしょうか。それは、門徒たちが「自分の理屈で納得して、安心しようとしている心(自力の計らい)」を見抜いていたからです。人間は「理解した」と思うことで安心しようとしますが、その「納得」を根拠にしている限り、それはまだ自分の力を頼りにしている姿なのです。
慈悲の「広さ」と「深さ」
阿弥陀如来の慈悲には、二つの側面があります。
一つは「広さ」。これは、善人、悪人、賢者、愚者を問わず、あらゆる人間を等しく包み込む無差別の救いです。誰一人としてこの網から漏れることはありません。念仏する人を全て助けるという意味です。
もう一つは「深さ」。これは、人間の側のどんな計らいも、阿弥陀仏の巨大なはたらきの前では「一切役立たない、間に合わない」という圧倒的な徹底ぶりを指します。救われるために心を整えたり、立派な人間になったりする必要はありません。むしろ、そんな人間の準備など「間に合わない」ほど、救いは先回りして届いているのです。
ふと出る名号、それが如来のはたらき
では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。答えは、何かを「しよう」とすることの終わりにあるのかもしれません。
自力の計らいが及ばないことを悟り、自分の理屈を諦めたとき、口から「ふと出る名号(お念仏)」。それこそが、自分の意志ではなく、阿弥陀如来のはたらきが私に届いている証拠です。
自分の信仰心を自覚するのではなく、「こんな私の口から念仏が出るほどに、如来さまのはたらきは確かなのだ」と、相手のはたらきを聞き受ける。そこに、言葉を超えた真実の安心があります。
本記事のまとめ