本願のかたじけなさよ
〜「申し訳なさ」と「有り難さ」が重なる場所〜親鸞聖人の言葉を伝える『歎異抄』の中に、本願念仏の教えに出遇った聖人の感慨として、次のような言葉が残されています。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
(歎異抄)
私たちは普段、「かたじけない」という言葉を「ありがとう」という感謝の意味で使いがちです。しかし、この言葉にはもっと深く、重層的な意味が込められています。
今回は、この「かたじけなさ」という言葉を中心に、私たちが阿弥陀如来の救いに出遇うとはどういうことなのか、考えてみたいと思います。
「かたじけない」の3つの意味
辞書を引くと、「かたじけない」には3つの意味が含まれていると言われます。
- 恥ずかしい
- ありがたい
- もったいない
この三義が一体となった言葉です。つまり、単に「救われて嬉しい、おかげさま」と喜んでいるだけではありません。「喜び」と同時に、光に照らされた我が身の「頭の上げようのない恥ずかしさ」を知らされることでもあるのです。
親鸞聖人は、救われる道は阿弥陀如来の願い(本願)以外にはないとして、たった一句の念仏に生涯を託されました。その道は、あらゆる人が平等に救われる道でもあります。
「そのまま」で救われるということ
真宗では古くから、阿弥陀如来の救いは無条件であり、「そのまま」の救いであると言われてきました。これは、こちらの側から足したり引いたりせず、ありのままで救われるということです。
ある恩師が語った、忘れられないエピソードがあります。かつての女学校の卒業写真に、一人だけ晴着を着られず、普段着(服)で写っている生徒がいました。先生は「もし私が担任ならどうするか」と問いかけました。
「服を着物に替えるのではなくて、服を着たそのままで、写真の中央に座れば、後でどんな理由でもつけられるから、この女生徒に記念写真として大切に残してもらうことができると思う」
聖典セミナー 御文章
この話は、仏教の救いの姿に見事に重なります。
「服を着物に替える」というのは、私たちが修行をして立派な人間に変わることで救われようとすることです。しかし、阿弥陀如来の「そのまま」の救いとは、凡夫が凡夫のそのままで、真ん中に据えられるということです。
仏恩報謝の念仏 — 時と場所を選ばず
では、そのように「そのまま」で救い取られるご恩を尊く感じたとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。御文章には次のように示されています。
「なほなほたふとくおもひたてまつらんこころのおこらんときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいはず、ところをもきらはず念仏申すべし。」
(出典:御文章『男子も女人も章』)
現代語に訳せば、「この上は、往生決定の御恩を尊く思う心が湧いてきたときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声に出して、時処諸縁をきらわずにお念仏を申しましょう」 ということです。
特別な場所や時間を設ける必要はありません。いつ、どこであっても、尊い救いへの感謝の心が起こったその時に、お念仏を称える。これがそのまま「仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏」となるのです。
ところが、尊く思う心がなかなか出ないというのが、凡夫の姿です。
お恥ずかしい身を通しての合掌
病気や困難に直面したとき、多くの人が「生かされている」「ありがたい」という言葉を口にします。しかし、すべての人がそこで手を合わせる(合掌する)姿になるわけではありません。
「病気に負けないぞ」と努力する人は、感謝の言葉はあっても、なかなか合掌の姿にはなりにくいようです。一方で、自分の力の及ばなさを知り、病気と共に生きる人は自然と手が合わさるといいます。
私たちは「ありがたい」と思えば合掌できると考えがちです。しかし、そうではないのかもしれません。
み教えに出遇うということは、阿弥陀如来の願いの尊さを知ると同時に、「そのような尊い願いに背を向けている、喜べない我が身」を知らされることでもあります。そこで、自らの姿を『恥ずかしい』と感じるのです。
「本願のかたじけなさよ」とは、ただ嬉しいだけではない感情です。
頭の上げようのないお恥ずかしい身であること。そのことを通して初めて、人間は心からの合掌ができる身となるのです。
私たちが手を合わせ、時も場所も選ばず「南無阿弥陀仏」と称えるとき、それは単なる感謝の表現を超え、恥ずかしさと有り難さが入り混じった、深い仏恩報謝の姿となっているのです。