親鸞と法然「黄金の6年間」
孤独な生涯を支えた、師への絶対的な愛
90年の生涯を送った親鸞聖人ですが、師である法然上人と共に過ごせた時間は、わずか6年ほど(29歳〜35歳)に過ぎません。
しかし、この短い期間こそが、親鸞聖人にとって人生で最も輝き、その後の長い孤独な歩みを支える「光」となりました。
今回は、親鸞聖人がいかに法然上人を慕い、その出会いを幸福に感じていたかが痛いほど伝わってくる「3つの原文エピソード」をご紹介します。
1. 『教行信証』後序:魂の歓喜
親鸞聖人の主著『教行信証』は、極めて論理的で難解な書物です。しかし、その締めくくり(後序)で、法然上人と出会った建仁元年(1201年)を振り返る場面になると、突然、感情がほとばしるような表現が現れます。
慶(よろこ)ばしいかな、心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て、念(おもい)を難思(なんじ)の法海に流す。
深く如来の矜哀(こうあい)を知りて、良(まこと)に師教の恩厚を仰ぐ。
慶喜(きょうき)いよいよ至り、至孝(しこう)いよいよ重し。
(中略)
愚禿釋の親鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。 『教行信証』後序より
ああ、なんと喜ばしいことか! 私の心は今、阿弥陀仏の広大な大地にしっかりと立ち、思いは不可思議な真実の海に流れている。
阿弥陀如来が私を哀れんでくださったことを深く知り、師・法然上人の恩の厚さを仰ぐばかりだ。
喜びはますます極まり、感謝の思いはますます重くなる。
愚かなるハゲ頭の親鸞は、建仁元年のあの時、自力の修行を捨てて、阿弥陀仏の本願に帰したのだ。
「慶ばしいかな(ああ、うれしい!)」という絶叫から始まるこの一節。理論書の中でここだけ、親鸞聖人の生身の鼓動が聞こえてくるようです。
2. 『歎異抄』第二条:地獄への道連れ
親鸞聖人の法然上人への信頼が「理屈」を超えたものであることを示す、最も有名なエピソードです。晩年、疑いを持つ弟子たちに対して語った言葉です。
たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候。 『歎異抄』第二条より
仮に、私が法然上人に騙されて、その結果、念仏をして地獄に落ちることになったとしても、私は決して後悔いたしません。
これは信仰の告白であると同時に、究極の「愛」の告白でもあります。
「教えが正しいから信じる」のではありません。「この人が言うことなら、たとえ地獄行きでも構わない」。そこまで思える師に出会えたこと自体が、親鸞聖人にとって至上の幸福だったのです。
3. 『選択集』書写と御影:選ばれた喜び
法然上人の主著『選択本願念仏集(選択集)』は、当時は過激な書物として公にはされず、本当に信頼できる弟子にしか見せられませんでした。
親鸞聖人は入門から4年後、この秘蔵の書の書写を許され、さらに法然上人の肖像画(御影)を与えられます。
元久乙丑の歳(とし)、四月十四日、選択本願念仏集を書き写したてまつる。
同五月・日、書き写しおわんぬ。
同八月四日、空(くう)の真影(しんねい)を図したてまつる。
同日、真筆(しんぴつ)の「南無阿弥陀仏」「若我成仏(にゃくがじょうぶつ)……」の文を書かしめたまう。 『教行信証』化身土巻より
元久2年(1205年)4月14日、私は師の許しを得て『選択本願念仏集』を書写させていただいた。5月に書き終わった。
同年8月4日には、上人のお姿を描いた肖像画をいただくことができた。
さらにその日、上人は自ら筆をとって、その絵に「南無阿弥陀仏」の六字と、「もし私が仏になるならば…」という経文を書き込んでくださった。
一見すると日付のメモのようですが、ここには「私は師匠に認められたのだ」という誇りと感激が詰まっています。
数多くの弟子がいる中で、自分を選んでくれた。自分の名前を呼んでくれた。その記憶が、日付単位で鮮明に刻まれているのです。