「アッラーは頸動脈よりも近くにいる」――イスラム教が教える「孤独」と「願い」の秘密
1. 願い事は「崇拝」そのものである
多くの宗教や道徳では、「神様に自分の欲求ばかりぶつけてはいけない」と考える傾向があります。しかし、イスラム教の考え方は真逆です。
「願いなさい、さもなくば……」
イスラム教において、神(アッラー)に願い事をすること(ドゥア/Du'a)は、「崇拝(イバーダ)の本質」とされています。
なぜなら、人間が「私は弱く、あなた(神)がいなければ何もできません」と認めることこそが、信仰の証だからです。逆に、自分の力だけで生きられると思って神に何も願わないことは「傲慢」であるとされ、戒められます。
礼拝(サラート)の中で、信者が地面に額をつけて平伏する時、そこは「神に最も近い場所」とされ、盛んに個人的な願い事をすることが推奨されているのです。
「願いが叶わない」時の3つの答え
では、いくら祈っても願いが叶わない時は、神に見捨てられたのでしょうか?
イスラム神学には、この問いに対する非常に論理的な「3つの答え」が用意されています。アッラーは信者の願いに対し、必ず以下のいずれかの形で応答するとされます。
- 即時の成就: 願ったものがそのまま与えられる。
- 災厄の除去: 願いが叶わない代わりに、同等の災難や不幸が回避される。
- 来世への貯金: 現世では叶わず、その分が来世(天国)での報酬として蓄えられる。
つまり、「願い損」は絶対に存在しないというシステムです。この確信があるため、ムスリム(イスラム教徒)は結果がどうあれ、絶望することなく祈り続けることができるのです。
2. 物理的な距離を超えた「絶対的な近さ」
孤独感の正体は、「誰も私のことをわかってくれない」という断絶の感覚です。イスラム教は、この感覚を根底から覆す「神の定義」を持っています。
頸動脈よりも近く
聖典コーラン(クルアーン)には、神と人間の距離を示す衝撃的な一節があります。
「われ(アッラー)は人間を創り、彼の魂が何を囁くかを知っている。われは、彼の頸動脈よりも彼に近い」 (50章16節)
頸動脈は、私たちの生命維持に欠かせない血管です。神は、その血管よりもさらに内側、つまり私たちの生命や意識の根源的な場所に「既にいる」というのです。
心の中でふと思ったこと、誰にも言えない悩み、無意識の感情……それらすべてを、自分自身が自覚するよりも先に、神は知っています。この「常に見守られ、知られている(Allahu A'lam)」という感覚こそが、イスラム教徒の孤独を癒やす最大の処方箋です。
3. 「独処(ハルワ)」という特権
イスラム教の歴史において、「孤独」はネガティブなものではなく、神と二人きりになれる「密会(ハルワ)」の時間として捉え直されます。
洞窟の物語
預言者ムハンマドが敵に追われ、洞窟に隠れていた時の有名なエピソードがあります。不安に震える友に対し、ムスリムはこう告げました。
「悲しむな。アッラーは私たちと共におられる」
これは、社会から切り離され、孤立無援になった時こそ、神の同伴(マイヤ)が最も鮮明に感じられる瞬間であることを象徴しています。
究極の「友」を持つこと
イスラム教の教えでは、人は死後、たった一人で墓に入り、たった一人で最後の審判を受けます。家族も財産もそこには持って行けません。
その究極の孤独の時、唯一の友(Wali)となってくれるのが、現世で築いたアッラーとの絆です。
現世での孤独な時間は、この「永遠の友」との絆を深めるための、特別なトレーニング期間とも言えるのです。
結論:服従が生む安らぎ
「イスラム」という言葉は「(神への)服従」を意味し、そこから派生して「平安(サラーム)」という意味も含みます。
- 願い(Wishes)
- 自分の無力を認め、全てを神に頼ることで、プライドを捨て去る。
- 孤独(Solitude)
- 「神は私自身よりも私を知っている」と確信し、神との密会を楽しむ。
「どうにもならないこと」を、全能の神という「絶対的な他者」に完全に委ねてしまった時(服従)、人間の心には逆説的な「安らぎ」が訪れます。
それは、孤独な夜に「すべてを知っている存在」が、あなたの呼吸よりも近くにいることを感じる安らぎなのです。