仏教エッセイ|蓮如上人の御文章を味わう
「お腹が空いた」は本能、
「美味しいものが食べたい」は煩悩?
〜『末代無智章』に見る私たちの姿〜
みなさん、こんにちは。今回は、浄土真宗で大切にされている蓮如上人(れんにょしょうにん)のお手紙の一つ、『末代無智章(まつだいむちしょう)』を通して、私たちの心の中にある「煩悩」や「無知」について考えてみたいと思います。
このお手紙は、特別な修行者ではなく、日々の生活を送る私たち(在家止住の男女)に向けられたメッセージです。まずは、その原文と現代語訳を見てみましょう。
末代無智章のこころ(五帖目一通)を読む
末代無智(まつだいむち)の在家止住(ざいけしじゅう)の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。
(『註釈版聖典』一一八九頁)
末の世にあって智慧の灯の明るさを持たないで、煩悩にあやつられてすごしている男女はみな、疑いなく阿弥陀如来一仏をたよりとして、そのほかの神仏に心をよせずに、ただひたすら阿弥陀仏のたすけたまう法にまかせた衆生であるならば、たといどれほど深く重い罪を背負っていたとしても、阿弥陀如来は、如来の本願力によって間違いなくお救いくださるのであります。この意はそのまま、第十八念仏往生の本願の約束の御意であります。だから、このように信心決定したものは、休んでいようと働いていようとも、たといどのような生活様式をとっていたとしても、一生涯、つねに念仏を申して仏恩報謝の生活をさせていただきましょう。
1. 「本能」と「煩悩」の決定的な違い
私たちは普段、「煩悩」という言葉を「欲望」と同じような意味で使いがちです。しかし、この文章の解説では、人間が持つ「本能」と「煩悩」を明確に区別しています。ここが非常に興味深いポイントです。
本能 (Instinct)
- 「とにかく空腹を満たせればよい」という生存のための欲求。
- 生命を維持するためのシンプルな仕組み。
煩悩 (Defilements)
- 「同じ満腹になるなら、少しでも美味しいものを食べて満足したい」という欲求。
- 自分に都合のよいようにしたい、という自己中心的な心が伴う。
- 自分を見失わせる原因となる。
2. 「無知」とは知識がないことではない
タイトルにある「無知」という言葉。これは単に勉強ができないという意味ではありません。仏教でいう無知とは、「自分の行いの善悪さえ、正しく判断できない悲しい姿」を指します。聖典セミナー『御文章』で紹介されている、あるご家庭のエピソードがそれを浮き彫りにしています。
🍽️ 食器洗いの悲劇
あるご主人が、義理のお母さんが泊まりに来ている時、「たまには手伝おう」と善意で食器を運びました。ところが、義母からは「男がそんなことをするものではない」と叱られ、さらに奥様からは「いつもはやらないのに、今日に限ってこれ見よがしに! いやらしい」と怒られてしまったそうです。
ご主人は「良かれと思って(善)」やったことでした。しかし、その行為が結果として、奥様の立場を傷つけ、不快な思いをさせる「罪(悪)」になっていたのです。これは本当に身につまされるエピソードです。
このように、善いことをしたつもりでも、知らず知らずのうちに人を傷つけている。そしてそれに気づかない。これが、逃れることのできない「人間業の悲しさ」であり、私たちの抱える「無知」の正体です。
3. そのままの姿が「救いの目当て」
自分の都合ばかり優先する「煩悩」を持ち、何が本当の善かもわからず人を傷つける「無知」な私たち。
しかし、『末代無智章』は、そんな私たちを見捨てることなく、むしろ「目当て」にしていると説きます。
「たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし」「立派な人になったから」救われるのではありません。自分がいかに救いがたい「無知・煩悩」の身であるかを知り、阿弥陀さまに心をひとつにしてお任せする。そうして、感謝の念仏を称えて生きていくことが大切だと、蓮如上人は教えてくださっています。
(たといどれほど深く重い罪を背負っていたとしても、阿弥陀如来は間違いなくお救いくださる)
まとめ
「お腹が空いた」という本能は誰にでもあります。しかし、そこに「私にとって都合よく」という心が張り付いたとき、私たちは煩悩に振り回されます。良かれと思ったことが裏目に出るような、不完全で悲しい私たちだからこそ、阿弥陀さまの光が届いている。そのことに気づかされたとき、日々の「南無阿弥陀仏」がより深く味わえるのではないでしょうか。