救いは「気づく」もの? 近代浄土真宗の巨星・足利義山の「信心」をめぐる探求
導入
「阿弥陀さまに救われる」—。
それは、いつの間にか、ぼんやりと起こる出来事なのでしょうか?
それとも、心が「ハッ」とするような、明確な「気づき」を伴うものなのでしょうか?
幕末から明治へと日本が激動した時代に、浄土真宗の教えを未来につなぐため、この難問に生涯をかけて挑んだ一人の僧侶がいました。
その名は、足利義山(あしかが ぎざん、1824-1910)。
彼は浄土真宗本願寺派の最高の学者である「勧学(かんがく)」として、当時の仏教界が直面した大論争の真っ只中に立ちました。
この記事では、難解とされる義山の教えの核心、特に「信心(しんじん)」と「覚知(かくち=意識的な気づき)」をめぐる思想を、できるだけ分かりやすく解説します。
激突! 2つの学派、義山の立ち位置
義山の教えを理解するために、まず当時の浄土真宗にあった「2つの大きな流れ」を知る必要があります。
- 石泉(せきせん)学派(義山の出身学派)
「南無阿弥陀仏」と口で称えること(称名)の実践を重視。 信心を、心が安らぎを得ていくような、信者の体験的な側面から捉えようとする傾向がありました。 - 空華(くうげ)学派(当時のライバル学派)
「絶対他力」の立場を徹底。 人間の体験や心理状態は救いとは無関係。「ただ阿弥陀仏の本願(救いの約束)を聞き受けるだけ」という立場。
義山は、自らのルーツである石泉学派にありながらも、空華学派の教えにも深い敬意を払いました。彼はどちらか一方に偏るのではなく、両方の考えを深く理解し、統合しようとした学者だったのです。
義山教学の核心:救われた瞬間、心は「気づく」のか?
義山の教えの中で最も重要で、最も大きな論争を巻き起こしたのが「心相覚知説(しんそうかくちせつ)」という考え方です。
これは、当時の大論争「一念覚不論(いちねんかくふろん)」—すなわち、「信心を賜るその瞬間に、本人の『覚知(意識的な気づき)』はあるのか、ないのか?」—に対する義山の答えでした。
義山の主張:「覚知(気づき)は、ある」
義山は、阿弥陀仏から信心をいただく決定的な瞬間は、ぼんやりとした無意識的な出来事ではない、と主張しました。
師(善知識)から仏の教えを聞いて「なるほど、そうだったのか!」と理解する以上、そこには必ず「これで往生が定まった」と確信する心の状態(心相)があるはずだ、と断言したのです。
注意点:これは「自力」とは違います
この主張に対し、当時の人々は「『気づいた』と意識すること自体が、人間の力(自力)に頼る考えではないか?」と厳しく批判しました。浄土真宗の根幹は、自分の力を捨てる「絶対他力」だからです。
しかし、義山は明確に区別しました。
- ダメな例(自力): 自分の力で「よし、信じよう!」と決意すること。
- 義山の言う覚知(他力): 阿弥陀仏の絶大な力(他力)によって信心を賜った結果、あまりにも大きな心の変革が起きたために、心がそれを認識・体験すること。
彼は、「信心を生み出す行為」と「賜った信心を意識する経験」をはっきりと分けたのです。
これは、合理主義や個人の「意識」を重んじる近代という新しい時代に、信心を「机上の空論」ではなく「リアルな個人の体験」として語り直そうとする、義山の真摯な試みでした。
罪は「消す」もの? それとも「無力化」される?
もう一つ、義山の重要な教えに「いわれ滅罪説(めつざいせつ)」があります。
私たちは皆、多くの罪を抱えて生きています。この罪は、どうなるのでしょうか?
「南無阿弥陀仏」と称えるたびに、一つ一つ消しゴムで消えていくのでしょうか?
義山の答えは、もっとダイナミックです。
彼の考えはこうです。
阿弥陀仏の本願の力によって金剛のような固い信心をいただいた瞬間、私たちは阿弥陀仏に固く抱きとめられ、決して見捨てられることはありません(摂取不捨)。
その時点で、「罪が往生の妨げになる」という問題そのものが無意味になるのです。
ポイント:
罪が消えて無くなるわけではありません。
そうではなく、阿弥陀仏のあまりにも強い救いの光によって、私たちの罪が「救いを妨げる力を失う(無力化される)」のです。
これを「本願のいわれ(理由・意義)によって罪が滅する」と表現しました。
だからこそ、信心を得た後の「南無阿弥陀仏」は、罪を消すための手段(自力)ではありません。それは、すでに救いが定まっていることへの、あふれ出す「感謝(報恩謝徳)」の表現となるのです。
義山が遺したもの:学問から「生きた信仰」へ
足利義山は、龍谷大学の学長として多くの後進を育てました。彼が投じた「信心は覚知できるか?」という問いは、その後も浄土真宗の重要なテーマとして議論され続けています。
そして、彼の影響は学問の世界だけに留まりませんでした。
義山の娘である甲斐和里子(かい かずりこ)は、父から受け継いだ仏教精神に基づき、女子教育に情熱を注ぎました。彼女が設立した学校こそ、現在の京都女子大学の前身です。
義山の娘、和里子は、父の教えを「生きた信仰」として見事に表現しています。
彼女は、他人をそしることもある自分の口から「南無阿弥陀仏」と念仏が出てくることを、「誠に不可思議千万で、勿体のうてたまりません」と語っています。
罪深い自分(機)と、それでも救う阿弥陀仏(法)を同時に見つめる—。
まさに義山が説いた教えが、娘の信仰として息づいているのです。
まとめ
足利義山は、激動の時代に「他力」という伝統的な教えを、近代に生きる私たちの「リアルな体験」として語り直そうとした偉大な学者です。
「救いは、ただ無意識に起こるだけではない。心はそれをはっきりと体験し、受け止めることができる」
そう示した彼の教えは、伝統と近代の間で格闘した、彼の知的誠実さの証と言えるでしょう。