「信心の深さ」とは「アゴの上げ下げの深さ」?
浄土真宗の教えを学ぶ中で、非常に示唆に富む、しかし同時に誤解を招きやすい言葉に出会うことがあります。
「深くとは阿弥陀如来のお計らいのままに南無阿弥陀仏とお念仏申させていただくアゴの上げ下げの深さである」
聖典セミナー御文章153頁
この「アゴの上げ下げの深さ」とは、一体どういう意味でしょうか。信心の「深さ」を、なぜ「アゴの動き」で語るのでしょうか。この記事では、その真意を掘り下げます。
信心の「深さ」に関するよくある誤解
私たちは「信心が深い」と聞くと、すぐに自分の内面に目を向け、自分の「努力」や「状態」で測ろうとしてしまいます。しかし、この言葉は、そうした私たちの「はからい(自力)」を徹底して否定するものです。
誤解1:声の大きさや「程度」のことではない
「アゴの上げ下げが深い」と聞くと、「より大きな声で」「より心を込めて」お念仏を称えることだ、と考えるかもしれません。しかし、それは間違いです。
声の大きさや感動の度合いは、その日の体調や気分によって変わる、移ろいやすいものです。そのような不確かなものを救いの基準にするのは、「私のがんばり(自力)」を当てにする姿です。
誤解2:お念仏の「頻度(回数)」のことではない
では、「程度(質)」でないなら、「頻度(量)」、つまりお念仏を称える回数のことでしょうか。これも違います。
「一日一万回称えたから信心が深い」「十回しか称えられなかったから浅い」と考えることもまた、「私の行なった量(自力)」で救いの「深さ」を測ろうとする「はからい」に他なりません。
「アゴの上げ下げ」が指し示すもの
この言葉が「声の大きさ(程度)」も「回数(頻度)」も否定するのであれば、何を意味するのでしょうか。
「アゴの上げ下げ」という表現は、私たちの内面的な評価(感動、理解、決意)や、努力の量(回数、時間)といった要素をすべて削ぎ落とした、「ただ、お念仏が口から出ている」という客観的な事実そのものを指しています。
なぜ、その「事実」が重要なのでしょうか。
それは、浄土真宗において、お念仏(南無阿弥陀仏)は「私が」称えるものであると同時に、それ以上に「阿弥陀如来が、私に称えさせてくださっている」ものだからです。
- 阿弥陀如来のお計らい(おはからい):阿弥陀如来が「必ず救う」とすべてを計画し、完成してくださったこと。
- 申させていただく:「私が申す」のではなく、「如来の働きによって、申す身にさせていただいた」という他力(たりき)の表現。
つまり、「あごが動いて『南無阿弥陀仏』と口に出ている」という事実は、私たちの側の努力や資格に関係なく、すでに阿弥陀如来のお計らいが、この私に届いている証拠なのです。
結論:「深さ」とは、阿弥陀如来の「お計らいの深さ」
ここまでをまとめると、「信心の深さとは何か?」と問われれば、それは、
「私たちの側の、声の大きさや回数、感動の度合いではない。今、現にあなたの口が動き『南無阿弥陀仏』と称えている、その『アゴの上げ下げ』という事実こそが、そのまま阿弥陀如来の『必ず救う』という無限に深いお計らいの現れそのものなのです」
という意味になります。
この言葉は、「自分の心の中を覗き込んで、信心が深いか浅いか点検する(自力のはからい)」ことをやめなさい、と教えています。ただ如来から与えられたお念仏を、そのまま「申させていただく(アゴを上げ下げする)」こと、その事実そのものに、他力の救いのすべてがこもっているのです。
参考文献
[お読みいただくにあたって]
本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。