蓮如上人の「妻子を導けぬは情けない」という言葉の真意とは?
導入
「浄土真宗、中興の祖」として知られる蓮如上人(れんにょしょうにん)。彼が残した言葉をまとめた『御一代記聞書(ごいちだいきききがき)』には、現代の私たちにも深く突き刺さる言葉が数多く記されています。
その中でも、特に有名でありながら、しばしば誤解されがちな一節があります(第六十五条)。
我が妻子ほど不便(ふびん)なることなし、それを勧化(かんげ)せぬはあさましきことなり
今回は、この言葉の表面的な意味と、その奥に隠された蓮如上人の深い内省、そして当時の複雑な家族事情について掘り下げていきます。
1. 言葉の現代語訳と「表面的な意味」
まず、この言葉を現代語に訳してみましょう。
- 現代語訳:
「(仏法をまだ知らない)私の妻や子供ほど、哀れな者はいない。その(最も身近な)妻子を(仏の道へ)導こうとしないのは、本当に嘆かわしい(情けない)ことである。」
ここで重要なのは「不便(ふびん)」という言葉です。これは現代語の「便利ではない」という意味ではなく、「不憫(ふびん)」、つまり「気の毒だ、哀れだ」という意味です。
この一文だけを読めば、「家族を何よりも優先して伝道(勧誘)しなさい。それができないのは僧侶としても親としても失格だ」という、非常に厳しい「伝道命令」のように聞こえます。
2. 言葉の「本当の意図」— 焦点は“妻子”から“我が身”へ
しかし、この言葉の真意は、その直後に続く一文にこそあります。『御一代記聞書』の第六十五条には、こう続きます。
宿善(しゅくぜん)なくは、ちからなし。わが身をひとつ、勧化せぬものが、あるべきか。
すべてをつなげて現代語訳すると、その意味は劇的に変わります。
- 全文の現代語訳:
「私の妻子ほど哀れな者はいない。その妻子を導こうとしないのは情けないことだ。(しかし、その妻子本人に過去世からのご縁=宿善がなければ、私の力ではどうすることもできない。) (だからこそ、まず)この私自身(わが身)一人を、仏法に深く目覚めさせない(=勧化しない)ことがあってよいだろうか。いや、あってはならない。」
蓮如上人は、この言葉で何を伝えたかったのでしょうか。
- 人間的な苦悩: 蓮如上人ほどの指導者であっても、最も愛する家族の信心を、自分の力(自力)で思い通りに「植え付ける」ことはできませんでした。そのもどかしさ、情けなさを「あさましきことなり」と吐露しています。
- 「他力」への転換: 彼は「自分の力ではどうにもならない(ちからなし)」という現実に直面します。救いは自分の力ではなく、本人のご縁(宿善)と阿弥陀仏の働き(他力)によるものだと痛感したのです。
- 結論=自己への矢印: だからこそ、「他人を導けない」と嘆く前に、まず問われるべきは「この私自身(わが身ひとつ)が、本当に仏法に目覚めているのか」という一点です。
つまりこの言葉は、他人へ伝道(勧化)を強制するものではなく、「まず自分自身が救われるべき一人である」という、蓮如上人の厳しい自己反省の言葉なのです。
3. 蓮如上人のリアルな家族事情
では、蓮如上人の家族は、本当に仏法から離れていたのでしょうか? 27人(十三男 十四女)もの子供がいた蓮如上人の「家族戦略」は、非常に現実的かつ戦略的なものでした。
息子と娘の役割の違い
息子(男子):内部統治の駒
息子たちの多くは、浄土真宗の僧侶として各地の中核寺院(御坊)に派遣され、急拡大する教団の統治を任されました。
しかし、幼少期には養育事情や他宗派との関係構築のため、禅寺に預けられた息子もいます。
彼らは最終的に本願寺に戻り、浄土真宗の発展に尽力しましたが、蓮如上人がいかに多様な勢力の中で教団を運営していたかが分かります。
娘(女子):外部同盟の絆
一方で、14人いた娘たちの多くは、教団の「外」の世界、すなわち有力な公家(朝廷の貴族)や武家(武士)に嫁いでいます。
- 七女・祐心 → 公家の白川資氏王へ
- 十女・祐心 → 公家の中山宣親(のちの関白)へ
これは、本願寺教団を外部の権力から守り、同盟関係を築くための「政略結婚」でした。娘たちは、お寺関係以外の場所で、本願S寺の勢力拡大に貢献したのです。
まとめ
蓮如上人の「我が妻子ほど不便なることなし」という言葉。
それは単なる家族伝道のススメではありません。 教団のトップとして、また一人の親として、「最も大切な家族さえも自分の力では救えない」という人間の限界(自力)と、「だからこそ、まず私自身が救いの当事者でなければならない」という深い内省(他力)が込められた言葉でした。
そしてその裏には、息子たちを各地に配し、娘たちを公家や武家に嫁がせるという、戦国時代を生き抜くためのリアルな家族戦略があったのです。この言葉は、理想の教えと厳しい現実の狭間で苦闘した、蓮如上人の人間的な姿を私たちに伝えてくれます。
[お読みいただくにあたって]
本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。