月影

日々の雑感

蓮如上人「三首の詠歌章」の和歌を解説|ひとたびも・つみふかく・法をきく

 

迷いから安心へ。蓮如上人の「三つのうた」が教える、”たのむ”ことの本当の意味

はじめに

こんにちは。

私たちは日々、いろいろなことに悩み、迷いながら生きています。
「本当にこれでいいんだろうか」「将来が不安だ」
そんな時、何かにすがりたくなるのが人間の心かもしれません。

浄土真宗を多くの人に広めた蓮如(れんにょ)上人は、難しい教えを分かりやすい言葉で伝える天才でした。その中でも「御文章(ごぶんしょう)」という手紙の中にある三首の和歌(うた)は、私たちが迷いから安心へと至る心のプロセスを、見事に描き出しています。

今回は、この三首のうたを、私たちの日常の心と照らし合わせながら、やさしく読み解いていきたいと思います。

一首目:「たのむ」は、自分の”決意”ではなく、”出会い”

ひとたびも ほとけをたのむ こころこそ
まことの のりに かなふ みちなれ

【現代語訳】(ただ一度でも)阿弥陀如来を「たのむ」心、それこそが、真実の教え(お浄土への道)にかなう唯一の道なのです。
【ある人の解釈】

阿弥陀如来のことは知っていたし、念仏も唱えたことはあった。でも、それは神社の願掛けのようなもので、本気で「たのむ」ことはできなかった。そんな自分が、人生でどうしようもなく追い詰められた時、思わず「阿弥陀(あみだ)さま!」と念仏を称え、たのんだ。その「たのんだ」瞬間が、阿弥陀如来の願いに沿うことだったんだ。

【解説と追記】

これは、非常に大切な体験です。多くの方が、この人の解釈のように「知っている」ことと「本当にたのむ」ことの違いを感じています。

この人の解釈は、まさにその通りです。ただ、ここで蓮如上人が伝えたいのは、「よし、たのむぞ!」と決意する”自分の強さ”ではありません。

ポイントは「ひとたびも(一度でも)」です。
私たちは「何度も願掛けしなきゃ」「強く信じ続けなきゃ」と思いがちです。しかし、このうたは「そんなことは関係ない」と言います。

追い詰められて、思わず「助けて!」と口に出た。その瞬間は、「私が仏をたのむと決めた」のではなく、「仏の『あなたを助ける』という呼び声が、やっと私に届いた」瞬間なのです。

それまで頭でっかちに考えていた自分が、どうしようもなくなった時、初めて心の底から「たのむ」しかなかった。それこそが、阿弥陀如来がずっと待っていてくれた「たのむ心(=信心)」との出会いであり、それが真実の道なのだと、このうたは教えてくれます。

二首目:”罪深い私”のまま、救いの力に運ばれる

つみふかく 如来(にょらい)をたのむ 身になれば
のりの ちからに 西へこそ ゆけ

【現代語訳】罪深い(どうしようもない)私だと気づき、阿弥陀如来をたのむ身となったならば、阿弥陀仏の本願力(のりのちから)によって、自然と浄土(西)へと向かって歩むことになるのです。
【ある人の解釈】

阿弥陀如来を信じきれないし、煩悩だらけで他人を傷つけてばかりいる。そんな自分が本当に罪深いと自覚して、阿弥陀如来をたのむようになると、阿弥陀如来の本願力で浄土へと迎えられるんだ。

【解説と追記】

これも素晴らしい解釈です。「自分が罪深いと自覚する」ことは、教えを聞く上で欠かせないスタートラインです。

ここで一つ、とても大切なポイントがあります。
私たちは「① 罪深いと反省する → ② だから阿弥陀さまをたのむ → ③ その結果、救われる」という順番で考えがちです。

しかし、阿弥陀如来の救いは、もっとダイナミックです。
「のりのちから(法の力=阿弥陀如来の力)」が私に届くと、二つのことが同時に起こります

  1. 自分のどうしようもなさ(罪深さ)が知らされる。
  2. そんな自分を、阿弥陀如来は「そのままで救う」と抱きしめてくださっていることが知らされる。

つまり、「反省したから救われる」のではありません。
阿弥陀如来という絶対的な光に照らされたからこそ、「あぁ、自分はこんなにも煩悩まみれだったのか(つみふかく)」と気づかされ、それと同時に「こんな私を、この光は見捨てなかったのか(如来をたのむ身になれば)」と知らされるのです。

この「たのむ身」になった瞬間、私たちは阿弥陀如来の「法の力」という大きな船に乗せられます。あとは私たちがじたばたしても、船は勝手に「西(浄土)」へと向かって進んでいく。これが「のりのちからに西へこそゆけ」ということです。

三首目:”ありがとう”としてあふれ出る「南無阿弥陀仏

法(のり)をきく みちに こころの さだまれば
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と となへこそ すれ

【現代語訳】阿弥陀如来の教えを聞き続け、おまかせする心(信心)が定まったならば、自然とこの口から「南無阿弥陀D仏」と、お念仏があふれ出てくるものです。
【ある人の解釈】

少しずつ教えが理解できるようになると、もっと知りたくなる。そして、阿弥陀如来の願いを聞くと決めたなら、南無阿弥陀仏と称えることだけをしなさい。

【解説と修正】

ここが、最も大切な「自力」から「他力」への転換点です。
この人の解釈の「(自分が)決めたなら」「(自分が)しなさい」という部分は、まだ自分の努力(自力)で頑張ろうとしている姿とも言えます。

このうたの本当のポイントは、「〜しなさい(命令)」ではなく、「〜こそすれ(自然とそうなる)」という点にあります。

前のうたで、罪深い私のまま、阿弥陀如来の船に乗せられたことに気づきました。
「こころのさだまれば」とは、「もう大丈夫だ。私はこの船に完全におまかせしよう」と心が定まること(=信心が定まること)です。

これは、自分が努力して決めることではありません。「もうじたばたするのはやめよう。この船は絶対に沈まない」と、阿弥陀如来の力に100%おまかせした状態です。

そうなった時、口から出る「南無阿弥陀仏」は、

  • 「助けてください!(と願う)」お念仏
  • 「救われるために(義務で)称える」お念仏

ではなく、

  • 「こんな私を乗せてくださり、ありがとうございます!(感謝)」
  • 「おまかせします!(安心)」

という、感謝と安心の言葉として、自然とあふれ出てくるのです。

蓮如上人は、私たちに「念仏を称えなさい(義務)」と言っているのではありません。「阿弥陀さまの救いに気づけば、自然と『南無阿弥陀仏』と感謝せずにはいられなくなりますよね」と、優しく語りかけてくれているのです。

追記

「となへこそすれ」の文法解説

この部分は、以下のような構造になっています。「すれ」を命令形と間違ったため上のような解釈になったようです

南無阿弥陀仏と)となへ(連用形) + こそ(係助詞・強意) + すれ(サ変動詞「す」の已然形)

  • 直訳:南無阿弥陀仏と)称えることこそ、するのである。

  • 意訳: 「(心が定まったならば)自然と南無阿弥陀仏と称えるものなのだ」という、強い確信や自然な心の流れを表しています。

まとめ

この三首のうたは、

  1. 追い詰められて、初めて仏の呼び声に出会う(ひとたびも)。
  2. その光に照らされ、自分の罪深さと、そんな自分を救う大きな力に気づく(つみふかく)。
  3. すべてをおまかせした安心から、感謝の「南無阿弥陀仏」があふれ出る(法をきく)。

という、心が救われていくプロセスを描いています。
これは、私たちが「頑張って」たどり着くゴールではありません。阿弥陀如来の側から私たちに働きかけ、「大丈夫、そのままでいいんだよ」と、安心させてくださる物語なのです。

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[お読みいただくにあたって]

本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。