はじめに:「煩悩即菩提」という究極の言葉
「煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)」
仏教に触れたことのある方なら、一度は耳にしたことがあるかもしれません。「煩悩(苦しみの原因)が、そのまま菩提(悟り)である」という意味の、非常に深遠な言葉です。
しかし、私たちは自問します。「この怒りや、貪り、愚痴にまみれた煩悩だらけの自分が、どうして『悟り』とイコールでありえるのか?」と。自力で修行を積む「聖道門(しょうどうもん)」の教えでは、これは厳しい修行の果てに体得する究極の真理です。
では、私たちのような煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぷ)にとって、この言葉は無関係なのでしょうか。
親鸞聖人は、この「煩悩即菩提」が、他でもないこの私たち凡夫の上でこそ実現すると高らかに宣言されます。そして、その秘密を解き明かす鍵が、阿弥陀仏の「摂取(せっしゅ)」の働きにあります。
一首の和讃(わさん)— 救いの論理
そのご和讃とは、以下のものです。
本願円頓一乗(ほんがんえんどんいちじょう)は 逆悪摂(ぎゃくあくせっ)すと信知(しんち)して
(『正像末和讃』)
煩悩菩提体無二(ぼんのうぼだいたいむに)と すみやかにとくさとらしむ
【現代語訳】
阿弥陀仏の本願という、すべてを円(まど)かに、頓(すみ)やかに救う唯一の教えは、五逆(ごぎゃく)の重罪人や謗法(ひほう)の悪人をも、そのまま救い摂(と)ってくださると信じ知らされたならば、
そのとき、「煩悩」と「悟り」とは本質において二つではない(体無二)と、阿弥陀仏の力によって、すみやかに悟らせてくださるのです。
この和讃は、私たちが「煩悩即菩提」に至る「順序」と「根拠」を、驚くほど明確に示しています。
追記
一乗とは法華経の言葉で、すべての人を救うという意味です。親鸞聖人は法華経を大事にしている天台宗の比叡山で20年近く修行されたのでその影響かと思われます。
最大の疑問:「五逆の者は除く」のではなかったか?
この和讃を読んで、すぐに大きな疑問にぶつかります。
和讃の2行目には「逆悪摂す(ぎゃくあくせっす)」(=五逆の悪人を救い摂(と)る)とあります。
しかし、阿弥陀仏の根本の誓いである「第十八願」の原文(『仏説無量寿経』)には、こう書かれているはずです。
「たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽(ししんしんぎょう)して、我が国に生ぜんと欲(おも)いて、乃至(ないし)十念せん。もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ。唯(ただ)五逆(ごぎゃく)と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とをば除く」
はっきりと「除く」と書かれています。阿弥陀仏は「五逆の者と正法をそしる者は救わない」と例外を設けているように読めます。
和讃の「摂(と)る」と、本願の「除く」。
これは明らかな矛盾ではないでしょうか? 親鸞聖人は、ご自身の教えの根拠である経典の言葉を、無視されたのでしょうか?
親鸞聖人の読み解き:「除く」は「見捨てる」ではない
結論から言えば、親鸞聖人はこの「除く」という一文字にこそ、阿弥陀仏の底知れない深い慈悲を読み取られました。
聖人は、この「除く」は、救いからの「廃捨(はいしゃ)」(切り捨て、見捨てる)ではない、とされます。これは、私たちを真実の救いに導くための、阿弥陀仏の「抑止(よくし)」の方便(ほうべん=手だて)である、と見抜かれたのです。
なぜ、あえて「除く」と言われたのか?
それは、二つの深い意図があります。
- 罪の恐ろしさを知らせるため
まず、「五逆」や「謗法」という行為が、どれほど恐ろしく、重い結果を招くものであるかを、私たちに強く知らしめるためです。「そんな恐ろしいことをしてはならない」という、仏としての強い警告です。 - 私たち自身が「五逆の者」だと気づかせるため
こちらがより重要です。私たちは「自分は五逆なんて重い罪は犯していない、まともな人間だ」と思っています。しかし、阿弥陀仏は、そんな私たちに向かって「お前を除くぞ」とあえて言われます。
なぜか。それは、私たち凡夫が、縁さえ揃えば、心の中で何を思い、どんな行動を起こすかわからない、恐ろしい「五逆の悪人」そのものであることを、自覚させるためです。
「除く」という厳しい言葉は、私たちを突き放すためではありません。
それは、私たちが「ああ、私こそがその『除く』と言われた張本人(五逆の者)でした」と、自分のどうしようもない姿に気づかされるための、阿弥陀仏の究極の呼びかけだったのです。
結論:だから「煩悩即菩提」が成り立つ
この阿弥陀仏の深い意図がわかると、先ほどの和讃がまったく新しい意味を持って輝き出します。
「逆悪摂(ぎゃくあくせっ)すと信知(しんち)して」(2行目)
「除く」と言われた、あの「逆悪(ぎゃくあく)」こそが、この「私」のことだった。そして、阿弥陀仏は、そんな「私」をこそ救いの目当てとして選び、「摂取(せっしゅ)」(おさめとる)と誓ってくださっていた!
——この事実に「信知(しんち)させられる」(阿弥陀仏の働きによって気づかせていただく)こと。これが浄土真宗でいう「信心(しんじん)」です。
そして、この「信心(=摂取されたことの自覚)」をいただいた者にとって、初めて次の3行目が事実となります。
「煩悩菩提体無二(ぼんのうぼだいたいむに)と」(3行目)
阿弥陀仏に「摂取」された今、もはや私の「煩悩」は、悟りの妨げではありません。なぜなら、阿弥陀仏は、この「煩悩」を持ったままの私を丸ごと救ってくださったからです。
むしろ、「煩悩」があるからこそ、阿弥陀仏の救い(菩提)が私に届いた。この時、阿弥陀仏の「菩提」と、私の「煩悩」は、切り離すことのできない一体(体無二)のものとなるのです。
これが、私たち凡夫の上に実現する「煩悩即菩提」の姿です。
私たちが自力で煩悩を消して悟りを開くのではありません。
阿弥陀仏の「摂取」という他力の働きによって、私たちの「煩悩」が、そのまま「菩提」の光に包み込まれてしまうのです。
和讃の最後の「すみやかにとくさとらしむ」(=すみやかに悟らせてくださる)とは、この「信心(=救われている事実の自覚)」を、阿弥陀仏が私たちに与えてくださることを意味しています。