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日々の雑感

「平生業成」と「臨終業成」の違いとは?蓮如上人の言葉に学ぶ浄土真宗の救い

 

「もう救われている」という安心感 — 平生業成の教えに触れる

「死んだらどうなるのだろう」「ちゃんと救われるのだろうか」。多くの人が、人生の終わりに漠然とした不安を抱えているかもしれません。「早くお迎えが来てほしい」と願ったり、「なかなかお迎えがないから」と嘆いたりするのは、命が終わるその瞬間に、何かが起こって初めて救いが決まると考えているからでしょう。

この「臨終業成(りんじゅうごうじょう)」、つまり死に際に救いが定まるという考え方に対し、浄土真宗では「平生業成(へいぜいごうじょう)」という、まったく異なる視点を大切にしています。これは、生きている“平生”の今、この瞬間に、救いがすでに定まっているという教えです。

今回は、この心を軽くする「平生業成」の考え方について、蓮如上人の言葉を記した『三首の詠歌章のこころ』を紐解きながら、その深い意味に触れてみたいと思います。

三首の詠歌章のこころ(四帖目四通)です。クリックしてください

【原文】

されども今日までは無常のはげしき風にもさそはれずして、わが身ありがほの体をつらつら案ずるに、ただ夢のごとし、幻のごとし。いまにおいては、生死出離(しょうじしゅつり)の一道ならでは、ねがふべきかたとてはひとつもなく、またふたつもなし。これによりて、ここに未来悪世のわれらごときの衆生をたやすくたすけたまふ阿弥陀如来の本願のましますときけば、まことにたのもしく、ありがたくもおもひはんべるなり。この本願をただ一念無疑(むぎ)に至心帰命(ししんきみょう)したてまつれば、わづらひもなく、そのとき臨終せば往生治定(ひつみょう)すべし。もしそのいのち延びなば、一期のあひだは仏恩報謝のために念仏して畢命(へいぜいごうじょう)を期とすべしこれすなはち平生業成のこころなるべし・・・・・・(中略)されば弥陀如来他力本願のたふとさありがたさのあまり、かくのごとく口にうかむにまかせてこのこころを詠歌(えいか)にいはく、

 

ひとたびもほとけをたのむこころこそ まことののりにかなふみちなれ

つみふかく如来をたのむ身になれば のりのちからに西へこそゆけ

法をきくみちにこころのさだまれば 南無阿弥陀仏ととなへこそすれと。

わが身ながらも本願の一法の殊勝(しゅしょう)なるあまり、かく申しはんべりぬ。

『註釈版聖典』一一六七~八頁)

【現代語訳】

そうは申しても、今日まで厳しい無常の風に誘われることもなく、いかにも自分は死とは無縁であるかのように思っていることも、よく考えてみますと夢・幻のようで頼りにならないことであります。只今では、迷いの世界を出で離れることを願う以外に、他に道はありません。そこで罪悪生死(ざいあくしょうじ)のわれらのような凡夫(ぼんぷ)を、無条件にたすけたまう阿弥陀如来の本願のましますと聞けば、この上なくたのもしくありがたいことと喜ばずにはおれません。この弥陀の本願を一心なく疑いなく信じて、そのまま何の心配もなくおまかせすれば、その時にいのちが終わっても浄土に往生することに間違いはありません。また、たといいのちに恵まれたとしたなら、その生涯に申すところの念仏は、ただただ仏恩報謝のために申すのであります。そして、その念仏の息が切れた時、浄土へ必ず往生させていただけると味わわせていただきましょうこれがすなわち平生業成のこころと申すのです。(中略)・・・・・・そこで弥陀の本願の不可思議なるはたらきである、無条件の救いの法の尊さありがたさを味わうあまり、口に浮かぶままに、次のようにその心を、

 

阿弥陀如来に一念帰命する信心一つだけが、真実涅槃(しんじつねはん)に至るみ教えにかなう道である。

罪深くあさましき者が、如来をたのむ信心の行人になれば、本願力の計らいによって、自然(じねん)に浄土へと向かって歩むこととなる。

聞信(もんしん)の道を歩ましていただく身になると、自然にこの口より南無阿弥陀仏と念仏があふれ出る。

と、歌にしてみました。愚かなる身をも考えず、本願のみ教えのこの上なく勝れている心を、このように申し上げてみたことであります。

聖典セミナー御文章『三首の詠歌章のこころ』より

救いの主役は、私ではなかった

私たちはつい、「私が信じるから救われる」「善い行いをすれば報われる」と考えがちです。しかし、本当にそうでしょうか。自分の心を覗いてみれば、信じているつもりで疑ったり、仏様に背を向けて自分の欲望に走ったり、そんな頼りない姿が見えてきます。

宇野行信師の文の中に、この核心を突く一節があります。

これは、弥陀如来を信じる私を救いに来てくださると味わうのではないでしょう。信じているつもりで、どこまでも背いて逃げている私を救わずにおれないと、かかり果てておられるのであります。

聖典セミナー御文章『三首の詠歌章のこころ』より

衝撃的な言葉です。救いは、「私が信じる」という条件によって成立するものではない。むしろ、信じることすらできない、どこまでも逃げ続けてしまうような、どうしようもない「私」を、阿弥陀如来の方から一方的に「放っておけない」「救わずにはいられない」と働きかけ続けてくださっている、というのです。

これは、いわば「追いかけてくる救い」です。私たちの心の状態や行いといった資格を一切問わず、「必ず救う、安心しておくれよ」という如来の呼び声が、南無阿弥陀仏となって今、ここに届いている。それが平生業成の教えの根幹です。

上の引用の前の文章です。クリックしてください

ある念仏者の方が、「南無阿弥陀仏は、川の土手のようなもの」と味わっておられますが、土手がどこまでも川に沿うて離れないように、弥陀如来南無阿弥陀仏となって罪悪生死の凡夫に、それこそ地獄の底までも離れたもうことがないとのお味わいでありましょう。

聖典セミナー御文章『三首の詠歌章のこころ』より

親が子を思うように — 楢山節考の母の姿

この一方的な慈悲の姿を、宇野行信師は映画『楢山節考』のワンシーンに重ねています。

貧しい村の掟により、息子に背負われ、山に捨てられに行く母。その道中、母は自分のためではなく、息子が帰り道に迷わないようにと、背中から木の枝を折って目印をつけていくのです。

捨てられる我が身でありながら、案じているのは息子のことばかり。この姿は、仏に背を向け、救いから逃げている私たちを、それでも見捨てることなく、どこまでも追いかけて救おうとする阿弥陀如来の大悲の心と重なります。私たちがどのような状態であろうと、如来の側ではすでに救いの準備が整えられ、私たちに差し向けられているのです。

では、「今」をどう生きるのか?

「もう救われている」のなら、私たちは何をすればいいのでしょうか。努力も念仏も、もう必要ないのでしょうか。

そうではありません。平生業成の教えにおいて、念仏(南無阿弥陀仏と称えること)の意味合いは大きく変わります。それは、救いを手に入れるための「手段」や「取引」ではなくなります。

蓮如上人の御文章(四帖目四通)にはこう書かれてあります。

もしそのいのち延びなば、一期のあひだは仏恩報謝のために念仏して畢命を期とすべし。これすなはち平生業成のこころなるべし

— 『三首の詠歌章のこころ』より

つまり、生きている間の念仏は、救いを求めるためではなく、すでにいただいている救いへの感謝の表現(仏恩報謝)となるのです。

「必ず救う」という呼び声に、ただ「おまかせします」と応えた瞬間、私たちの人生は、行き先(浄土)の定まった安心の旅路となります。だからこそ、称える念仏は「助けてください」という悲痛な叫びから、「ありがとうございます」という安堵と感謝の言葉へと変わるのです。

それは、何かをしなければならないという義務感からではなく、「そうせずにはおれない」という自然な心の表れです。

まとめ

平生業成とは、死の瞬間に救いが決まるという不安な生き方からの解放です。

信じきれない私、弱い私、逃げてしまう私。そんな私のありのままを、阿弥陀如来が「それでよい、そのまま引き受けた」と抱きしめてくださっている。その大きな慈悲に気づかされた時、私たちの人生は臨終の瞬間を待つまでもなく、「只今現在」、すでに救いの中にある安心の日々と変わります。

それは、人生のゴールテープが、遥か先にあるのではなく、実はスタートラインの足元にずっと置かれていたことに気づくような、大きな視点の転換なのかもしれません。

参考文献

聖典セミナー 御文章 宇野行信 本願寺出版

浄土真宗聖典 註釈版 本願寺出版

[お読みいただくにあたって]

本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。

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