なぜ大論争に? 本願寺派の新しい「領解文」が浄土真宗の根幹を揺るがす理由
はじめに:信仰の心臓部「領解文」をめぐる危機
近年、浄土真宗本願寺派が新たに制定した「領解文(りょうげもん)」が、多くの僧侶や門信徒(もんと)を巻き込む深刻な論争となっています。一部からは「浄土真宗の終わりだ」という悲痛な声さえ上がっています。なぜ、一つの文章の変更がこれほどまでに大きな問題となるのでしょうか。
それは、領解文が単なる儀式のお経ではなく、「私は浄土真宗の教えをこのように受け取りました」と表明する、個人の信仰告白そのものだからです。その起源は、室町時代に浄土真宗を大きく広めた蓮如(れんにょ)上人が、信者たちに自らの信心を言葉で語らせたことにあります。つまり領解文は、個人の信仰の核であると同時に、教えが正しく伝わっているかを確認する試金石でもありました。すでに、この新しい領解文は取り下げられており、収束していますが、信心の問題を考えるのに良い題材ですので書くことにしました。
重要なお知らせ2025.04.16 新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)に関する総局見解
今回の論争は、単に「言葉を現代風にした」というレベルの話ではありません。その変更が、浄土真宗が何百年もかけて築き上げてきた救いの構造、すなわち「信心」の定義そのものを変質させてしまう危険性をはらんでいるのです。本記事では、この問題の核心に迫ります。
なぜ新しい領解文は作られたのか?
本願寺派が新しい領解文を制定した公式な理由は、「現代の人々にも分かりやすく、皆で唱和できる言葉にするため」というものでした。確かに、蓮如上人の時代の言葉は古風で、解説なしには意味を正確に理解するのが難しいという側面はあります。制定側は、教えの「中身」は変えずに、あくまでその「表現」を現代化しようとしたのです。
しかし、ここが問題の出発点でした。浄土真宗の教え、特に蓮如上人の領解文においては、言葉の「形式」と教義的な「内容」は分けることができません。
蓮如上人の領解文(りょうげもん)クリックすると開きます。
領解文(りょうげもん)
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけそうらえとたのみもうしてそうろう。 たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうえの称名は、御恩報謝と存じよろこびもうしそうろう。
この御ことわり、御開山聖人(ごかいさんしょうにん)御出世の御恩、次第相承(しだいそうじょう)の善知識(ぜんぢしき)の御勧化(ごかんげ)の御恩と、ありがたく存じそうろう。
このうえは、定めおかせらるる御おきて、一期をかぎり、まもりもうすべくそうろう。
現代語訳
様々な行いや修行によって、自分の力で救われようとする心をすべて投げ捨てて、「阿弥陀如来よ、私のこの人生における最も重大な問題である死後のことを、どうかお救いください」と、一心に信じ、おまかせいたします。
そのようにおまかせした一念の瞬間に、浄土に生まれることは定まり、お救いいただくことが決定したと信じます。ですから、この(救いが定まった)後に私が称えるお念仏は、すべてその御恩に対する感謝の気持ちの表れであると、喜んでお称えいたします。
この教えに出会えたのは、宗祖である親鸞聖人がこの世にお出ましくださったおかげであり、また、その教えを代々正しく伝えてこられた祖師方がお導きくださったおかげであると、心からありがたく思います。
これからは、定められている(門信徒としての)掟を、生涯にわたって守り通していく所存です。
「分かりやすく」しようとした翻訳の過程で、救いへと至るための不可欠な神学的構造が抜け落ちてしまったのです。結果として、新しい領解文は信心を明確にするどころか、かえって深刻な混乱を生み出し、「これは信仰告白になっていない」という厳しい批判を浴びることになりました。
取り下げられた新しい領解文(りょうげもん)クリックすると開きます。
どこが決定的に違うのか? 旧領解文との比較分析
新しい領解文がなぜ問題とされるのか、その核心は三つのポイントに集約されます。伝統的な蓮如上人の領解文と比較しながら見ていきましょう。
最大の問題点:自らの力を「ふりすてる」ことの欠落
蓮如上人の領解文は、衝撃的な自己否定の言葉から始まります。
「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」
これは、「善い行いを積んだり、修行をしたりして、自分の力で救われようとする心を完全に捨て去って」という意味です。自分の無力さを徹底的に知り、自分の努力ではどうにもならない「後生の一大事(死後の大問題)」を自覚すること。この「捨自(しゃじ)」、すなわち自力を捨てる決意こそが、阿弥陀仏の救い(他力)にすべてを任せる浄土真宗の出発点でした。
しかし、新しい領解文には、この最も重要な「自力を捨てる」というプロセスが完全に抜け落ちています。霊的な自己破産を経験して初めて他力という救済が意味を持つのに、その前提がごっそり削られてしまったのです。これは、浄土真宗の入り口そのものが取り払われたに等しい、致命的な欠落だと言えます。
危険な曖昧さ:「そのまま救う」という言葉
新しい領解文は、阿弥陀仏の呼びかけを描写するところから始まります。
「『われにまかせよ そのまま救う』の 弥陀のよび声」
「そのまま」という言葉は、優しく聞こえるかもしれません。しかし、これは「あなたの煩悩まみれのそのままで素晴らしい」という、安易な自己肯定のメッセージとして誤解されかねない、神学的に非常に危険な表現です。浄土真宗の教えは、私たちがどうしようもない煩悩のかたまりである「にもかかわらず」、阿弥陀仏が一方的に救ってくださる、というものです。決して、煩悩具足のあり方が肯定されるわけではありません。この「そのまま」という言葉は、その決定的な区別を曖昧にしてしまいます。
真理の混同:「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つ」
新しい領解文の中で、神学的に最も問題視されているのがこの一節です。
「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」
これは仏教の深い概念である「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」を意識した表現ですが、これを迷いの世界の住人である私たちが、自分の立場から「だから救われるのだ」と語ることは、深刻な誤解を生みます。これは「悟った側」からの視点であり、信心を求める者の告白としては不適切です。
もし本当に「本来一つ」なのであれば、阿弥陀仏の救いを必死に求める必要性が薄れてしまいます。救いが、外から来る絶対的な力によるものではなく、元々自分の中にある真理に「気づく」ことへと変質してしまうのです。これは、信仰の焦点を「他力」から、一種の「自力的」な悟りへと引き戻す、極めて重大な教義の転換と言わざるを得ません。
「異安心(いあんじん)」の再来? なぜ危険なのか
これまでの分析で見てきた教義的な問題点は、歴史上、浄土真宗が常に警戒し、排除してきた「異安心(いあんじん)」、すなわち正統ではない誤った信心を誘発する土壌となります。
例えば、「自力を捨てる」という必死のプロセスが欠落しているため、ただ知識として教えを受け入れるだけで救われるとする「無帰命安心(むきみょうあんじん)」。「煩悩とさとりは本来一つ」という句は、救いはすでに完成しているのだから、今さら個人の信心は必要ないとする「十劫安心(じっこうあんじん)」といった異安心に結びつく危険性があるように指摘されています。
十劫安心(じっこうあんじん)については以下の記事をご覧ください。
蓮如上人の御文章「十劫邪義章」における誤った浄土真宗の信心への警鐘 - 月影
蓮如上人の領解文が、こうした誤った信心に陥らないための「防波堤」として機能してきたのに対し、新しい領解文は、その安全装置を自ら取り外してしまったかのようです。意図せずして、歴史的な異端思想が用いたような曖昧な言葉を導入し、誤った解釈へと人々を積極的に導きかねない構造になっているのです。
結論:分かりやすさの代償に失われたもの
現代の人々に教えを伝えたいという善意から始まった新しい「領解文」の制定は、結果として、浄土真宗の救済論における誠実性そのものを危機に晒す、悲劇的な結末を迎えつつあります。
自力放棄という出発点をなくし、誤解を招く言葉を使い、迷いと悟りの視点を混同することで、新しいテキストは浄土真宗の救いへの道を根本から変えてしまいました。それは、どうしようもない凡夫が阿弥陀仏の力に絶対的に帰依するという、苦悩に満ちた実存的なドラマを、手軽で哲学的に疑わしい自己肯定のメッセージに置き換えてしまったのです。
この問題は、単なる言葉選びの失敗ではありません。浄土真宗の信心とは何か、救いとは何かという、信仰の根幹をめぐる闘争なのです。分かりやすさを追求した代償として、私たちは最も大切な「中身」を失ってしまうのかもしれません。
[お読みいただくにあたって]
本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。