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「名号」がなぜ「行」なのか?浄土真宗の教えを初心者向けに解説

 

名号はなぜ「行」と呼ばれるのか?~仏教の救済力を現代の例で解説~

南無阿弥陀仏」というお名前(名号)は、ただの言葉ではありません。私たちを救う阿弥陀仏の「行(ぎょう)」そのものです。その深遠な理由を、自動運転車の例を交えて分かりやすく解説します。

 

仏教の基礎用語を理解する

名号が「行」である理由を理解するために、まずはいくつかの重要な仏教用語を確認しましょう。

名号(みょうごう)
阿弥陀仏お名前南無阿弥陀仏)。阿弥陀仏が私たちを救うために完成させた、すべての徳と力が結晶した「行」そのものです。
行(ぎょう)
ここでは、私たちが悟りのために行う修行(自力の行)ではなく、私たちを救うためにはたらく阿弥陀仏の完成された実践(他力の行)を指します。
万徳(まんとく)
仏が持つ、衆生を救うために必要な、すべての完全な徳や力。名号にはこの万徳がすべておさまっています。
仏果(ぶっか)
仏の悟りの境地。私たちにとっての究極のゴールであり、揺らぐことのない安らぎの世界(お浄土)です。

名号そのものが「行」である理由

名号は、私たちが自力で修行しなくても、そのお名前自体に衆生(私たち)を仏果(悟り)に到達させる万徳と力用が完全に備わっています。阿弥陀仏が私たちのために、気の遠くなるような時間(兆載永劫)をかけて修行を完成され、そのすべての功徳を「南無阿弥陀仏」の六字に込めて、私たちに差し出してくださっているのです。

称名も「行」となるメカニズム

私たちが「南無阿弥陀仏」と口で称える称名(しょうみょう)もまた、阿弥陀仏の「行」です。これは、私たちが自力で功徳を積むための修行とは根本的に異なります。

名号(行)をいただき、口から現れる

阿弥陀仏の救いの力(自動運転車)を、そのまま受け入れること(信心)ができたとき(自動運転車に乗り込んだとき)、私たちの口から「南無阿弥陀仏」のお念仏が自然とこぼれ出てくるのです。

これは、私たちが意識して「車の名前を呼ぶ」のとは少し違います。むしろ、車そのものが「私はここにいますよ、大丈夫ですよ」と、私たちの口を通して語りかけてくれているようなものです。エンジン音や車内アナウンスが、私たちの声となって響いている、とイメージすると良いかもしれません。

つまり、私たちが称えるお念仏は、「私が」頑張って行う修行ではありません。阿弥陀仏からいただいた名号という「行」が、そのまま私たちの口を通して現れ出た姿なのです。

ですから、称名は私たちの行ではなく、阿弥陀仏の行そのもの。聞くのも阿弥陀仏の呼び声、称えるのも阿弥陀仏の働き。これが、称名が「行」であることの本当の意味です。

[お読みいただくにあたって]

本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。

 

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