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日々の雑感

【私論】なーまんだーぶは、機法一体を表す。なぜお念仏を区切らずに称えるのか?

 

【私論】なーまんだーぶは、機法一体を表す。なぜお念仏を区切らずに称えるのか?

お寺やお仏壇の前で、多くの人が「なーまんだーぶ」「なまんだぶつ」とお念仏を称えるのを聞いたことがあると思います。この言葉が「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」であることはご存知の方も多いでしょう。

しかし、ふと疑問に思ったことはありませんか?
なぜ「南無」と「阿弥陀仏」の間で区切らず、まるで一つの単語のように流れるように称えるのでしょうか。

それは単なる発音のしやすさや習慣なのでしょうか。私は、この滑らかなお称えの仕方そのものに、浄土真宗の教えの核心である「機法一体(きほういったい)」という深い真実が表現されているのではないかと考えています。


まず「南無阿弥陀仏」を分解してみよう

このお念仏の意味を理解するために、一度「南無」と「阿弥陀仏」に分けて考えてみましょう。

伝統的に、中国・唐代の善導大師(ぜんどうだいし)の解釈を基に、この六字は「願(がん)」と「行(ぎょう)」に分けられます。

「南無」とは(願)
これは古代インドの言葉がもとになっており、「おまかせします」「心から信頼します」という意味です。蓮如上人は「唯能常称章」の中で、「南無」を願であり、私たち人間の側からの「帰命」の心であるとされました。
しかし、ただの信頼ではありません。自分自身の力ではどうすることもできない、煩悩から離れられない弱い存在であると深くうなずき、仏さまにすべてをゆだねる心です。この「救われるべき私たち自身」のことを仏教用語「機(き)」と言います。

阿弥陀仏」とは(行)
こちらは、「すべての衆生を必ず救う」という誓いを立てられた仏さまのお名前です。蓮如上人は「阿弥陀仏」を行であるとされました。このお名前には、私たちを救うための智慧や慈悲といった、阿弥陀仏のすべての行(修行・働き)がすでに込められています。この「私たちを救う仏さまの力や働き」のことを「法(ほう)」と言います。

つまり、「南無阿弥陀仏」とは、「私たち(機)」が「仏さま(法)」に帰依(きえ)する姿を表した言葉であり、阿弥陀如来の「願」と「行」が具足(ぐそく)した御名なのです。


浄土真宗の核心「機法一体」

ここからが本題です。浄土真宗の教えの中心に「機法一体」という非常に大切な考え方があります。

これは、「機」(=私たち)と「法」(=阿弥陀仏)が、南無阿弥陀仏」というお念仏の中で、完全に一つになり、切り離すことができない、という教えです。

どういうことでしょうか?

普通に考えると、「まず私が仏さまを信じ(南無)、その行いのおかげで、次に仏さまが救ってくださる(阿弥陀仏)」という順番を思い浮かべるかもしれません。しかし、親鸞聖人はそうではないと示されました。

蓮如上人は、この機法一体の真実を自力心を打ち破るために明確に示されました。

たのむ機と摂取不捨の法とが一体である南無阿弥陀仏だから、何の用もいらぬ凡夫そのままのお救い(これを機の無作という)であるからこそ、平等にして一人としてもれることがないんだよと、機法一体の南無阿弥陀仏の味わいでもって、信心までも如来回向のものだよと、御教示くださったのであります。 聖典セミナー 御文章

私たちが「おまかせします(南無)」と頭を下げた瞬間、すでに阿弥陀仏の「必ず救う(阿弥陀仏)」という働きの中に抱きとられている、と言うのです。

「救ってくれ」と手を伸ばす私(機)と、「任せなさい」と差し出されている仏の手(法)は、別々の動きではなく、一つの救いという出来事そのものなのです。


「なーまんだーぶ」という音に込められた意味

この「機法一体」の教えを胸に、もう一度お念仏の称え方を考えてみましょう。

もし、「なむ、あみだぶつ」と明確に区切ってしまったらどうでしょうか。
そこには、「私がまず『南無』という行いをし、その結果として『阿弥陀仏』の救いがやってくる」という、自分の行いを頼りにする心(自力)が入り込む余地が生まれてしまいます。

さらに蓮如上人は、念仏は単なる「口まね」であってはならず、声に出して称えた念仏を「自分の耳に聞くことが大切」**であると説かれました。なぜなら、その称名そのものが、阿弥陀如来が私たちに直接

「たすけたまう」「まかせよ」と喚びかけはたらきかけてくださっていることなのです。

その如来の喚び声(法)を聞いたまま、私たちが「たすけたまへ」「おまかせします」と応じる相(すがた)が念仏であるとされます。

この深い一体の視点に立つとき、「なーまんだーぶ」と息もつかせず、一つの流れとして称えることの意味がわかります。

そこには「私の行い」と「仏の救い」の区別はありません。「おまかせします」という私の心が、そのまま「必ず救う」という仏の心に包まれている。その機法一体の真実が、音として、行いとして、見事に表現されているのではないでしょうか。


まとめ

お念仏を「なーまんだーぶ」と一体で称えるのは、単なる発音のクセや習慣ではありません。

「南無」と「阿弥陀仏」は分けられない。救われる私と救う仏は、お念仏の中で常に一つである。そして、その私たちの「信心」さえも如来から回向されたものである。

この深遠な教えが、私たちの口からごく自然にこぼれ出るように、先人たちはこのようにお称えしてきたのかもしれません。何気なく耳にする「なーまんたーぶ」という響きに、改めて深く心を寄せてみたいと思います。

参考文献

聖典セミナー 御文章 宇野行信 本願寺出版

[お読みいただくにあたって]

本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。

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