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「安心」とは何か?妙好人・清九郎に学ぶ浄土真宗の他力信心。「他人ごと」の境地を分かりやすく解説。

 

あなたは本当に”安心”できていますか?妙好人・清九郎に学ぶ「他人ごと」の信心

人生の大きな壁や「死」という現実に直面したとき、私たちの心は揺れ動き、「本当にこのままで大丈夫なのだろうか」という不安に苛まれることがあります。

そんな時、多くの人は熱心にお経を唱えたり、教えを学んだりして、無理にでも「信じよう」「安心しよう」と努力するかもしれません。しかし、それは心の底からの安心でしょうか?

今回は、江戸時代の妙好人みょうこうにん・在家の篤信者)である清九郎(せいくろう)の言葉を通して、浄土真宗が教える本当の「信心」と「安心(あんじん)」の姿に触れてみたいと思います。


頑張って信じようとするのは、本当の安心ではない

まず、清九郎が指摘する「多くの人」の姿を見てみましょう。

人間が死に直面すると、日頃の喜びは消え、不安や疑惑の思いに苦しむものです。聖教の文句などを暗誦し、信心を得たふりをする人もいますが、それは内心の不安や疑雲を打ち払おうと力んでいるだけで、真の安心ではありません。

これは耳の痛い話かもしれません。私たちは不安を消すために、自分の力で何かをしようと「力んで」しまいます。しかし、それは心の表面を取り繕っているだけで、根本的な解決にはなりません。なぜなら、その努力の根底には「自分の力で安心を得なければならない」という「自力(じりき)」の考え方があるからです。

清九郎は、この「自力」こそが不安や疑いの元凶だと見抜いていました。

「清九郎さん、あなたは疑い心が起こりませんか。」と問われると、「疑う心のある人は自力で行こうとしているのではありませんか。」と答えました。

「不安は湧きませんか。」と問われると、「それも、自分の足をたよっているからじゃありませんか。」と答えました。

疑いや不安は、消そうとすればするほど大きくなるもの。清九郎は、そもそも努力の方向性が違うのだと教えてくれます。


「この世が一番好き」と認める正直さ

では、清九郎はどのような心境だったのでしょうか。彼は決して、世を儚む聖人のような人物ではありませんでした。むしろ、驚くほど正直に自分の本性を認めていたのです。

「この世は執着するところではない」という有難い話を聞いた清九郎は、なんと手を振ってこう言いました。

「うそよ、うそよ」

そして、こう続けます。

「ほんまはこの世が一番好きだのに、ちょっと思うようにならなかったり、恐ろしいことがつづくと、さもこの世がいやになって、お浄土が恋しいような風をして仏さまをごまかし、自分をあざむいてお浄土へ参ろうとしているのよ。」

これこそが、浄土真宗の教えの出発点である「凡夫(ぼんぶ)の自覚」です。私たちは、この世が大好きで、死ぬのが何よりも怖い、欲望と執着にまみれた存在(凡夫)です。

本当の信心とは、そんな自分の姿を否定し、清らかな聖者を目指すことではありません。むしろ「ああ、自分はまさしく、このどうしようもない凡夫なのだ」とありのままの自分を認めるところから始まるのです。仏様は、そんな私たちの心をすべてお見通しなのですから。


究極の安心は「他人ごと」にあり ✨

自分の弱さを正直に認めた上で、清九郎の安心はどこから来るのでしょうか。その答えが、彼の最も有名な言葉に凝縮されています。

「凡夫の“願い”は相場がきまっている。お浄土参りは如来さまの願いだもの。とんと他人ごとに思えてなあ。」

これは衝撃的な言葉です。普通、自分の往生や救いは、自分にとっての一大事のはず。それを「とんと他人ごと」だと言うのです。

ここに、自力とは全く異なる「他力(たりき)」の信心の世界が広がります。

  • 凡夫の願い:私たちが立てる「浄土へ行きたい」という願いは、気分や状況で揺らぐ不確かで利己的なもの(相場がきまっている)。
  • 如来の願い:一方で、「すべての人々を必ず浄土へ生まれさせ、仏にしてみせる」というのが、阿弥陀如来(仏様)が立てられた揺ぎない願い(本願)です。

つまり、私を救うというプロジェクトの責任者は、私ではなく阿弥陀様の方なのです。

私がどれだけ不完全で、疑い深く、この世に執着していても、阿弥陀様の「必ず救う」という計画には一切影響がありません。救いは、私の頑張りや心の状態に左右される「自分ごと」ではなく、阿弥陀様が必ず成し遂げてくださる「他人ごと(阿弥陀様ごと)」なのです。

このことに気づくとき、私たちは初めて肩の力を抜き、心の底からの「安心」をいただくことができます。


まとめ

清九郎の安心とは、「自分は救われるような立派な人間ではない」という凡夫の自覚と、「そんな自分だからこそ、阿弥陀様がすべて引き受けてくださっている」という他力への絶対的な信頼から生まれます。

自分の救いを「自分ごと」として抱え込み、力んでしまうことから解放されたとき、人は初めて、澄み渡った五月空を無心に泳ぐ「念仏の鯉のぼり」🎏 のように、この世を安心して生きていくことができるのかもしれません。

「清九郎のような愚か者は、阿弥陀さまばかりがおたよりですでのう。」

この清九郎の言葉に、他力の信心のすべてが言い尽くされています。 🙏

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[お読みいただくにあたって]

本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。

参考文献(上記の文は以下の文献より引用しています。75,76ページ)

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