月影

日々の雑感

【心が折れた時の処方箋】浄土真宗の教えに学ぶ「壊れない心」の持ち方(御文章 大聖世尊章のこころ)

心が折れそうなあなたへ。人生の嵐を乗り切る「壊れない心」の見つけ方

「もう、頑張れない…」

仕事のプレッシャー、複雑な人間関係、将来への漠然とした不安。私たちは日々、押し寄せる波に耐えながら、心のどこかで「絶対的な安心感」を求めています。しかし、現実は甘くなく、自分の心の脆さ、儚さを痛感するばかり。特に、予期せぬ病や大切な人との別れに直面した時、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われたことはないでしょうか。

一体、何に頼れば、この荒波のような人生を乗り切れるというのでしょう?

今日は、そんなあなたのための物語です。難しい修行や、血の滲むような努力は必要ありません。ただ、心の向きを少しだけ変えることで手に入る、「ダイヤモンドの心」についてお話ししたいと思います。

誰も逃れられない「賞味期限」という現実

まず、私たちが目を向けなければならない、一つの真実があります。それは、この世の全てのものには「終わりがある」ということです。蓮如上人は、御文章(大聖世尊章(三帖目四通))で、この真理を次のように説いています。

それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり

大聖世尊章(三帖目四通)本文はこちら

それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。・・・・・・(中略) …………………この阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。以下略

(『註釈版聖典』一一二六頁)

【現代語訳】

よくよく人間のはかないありさまを考えてみますと、この世に生まれ生じたものは、間違いなく死に帰し、盛んなるものは衰えてゆくのがならわしのことであります。それをただむなしくすごして年月を送るということは、まことにもってこの上もなくつらく悲しい思いがいたします。大聖世尊をはじめとして十悪五逆の提婆にいたるまで、一人としてのがれがたきは無常のことわりでありましょう。そうしたことわりのなかにあるがゆえに、人身は受けがたく、まして仏法には悪いがたいことを感ぜずにはおれません。・・・・・ (中略)………………この阿弥陀如来をどのように信じさせていただいて、後生の一大事がたすかるかと申しますと、弥陀の救いになんの心配もしないで、諸他の雑行雑善を心にかけないで、ただひとすじに弥陀如来をたよりとして疑いなく信じたてまつると、弥陀如来は、その凡夫を一人も漏らさずに、光明のなかに包み込んで め取ってくださいます。このことを弥陀摂取の光明の利益をいただくと申すのです。また不捨の誓益とも名づけるのです。このように弥陀の光明に摂め取られた上は、信心の行者のいのち尽きたならば、そのまま真実の報土に往生することは、疑いのないことです。

どんなに栄華を極めた英雄も、歴史に名を刻んだ聖者でさえも、この「無常」というルールからは逃れられません。私たちは皆、例外なく、終わりに向かって歩んでいるのです。

この事実に気づかないふりをして、「ただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送る」のは、目的地を知らないまま航海を続ける船のようなもの。蓮如上人は、そんな生き方を「人生の方向と帰依処の定まらない歩み」だと鋭く指摘します。

しかし、この「終わり」を意識した時、私たちは初めて、死んでもなお失われることのない、本当の宝物を探し始めるのかもしれません。

救いへの「たった一つの近道」

では、どうすれば心の安らぎを得られるのか。その答えは、驚くほどシンプルでした。

なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば…

つまり、「あれこれ悩んだり、良いことをして救われようとしたりするのをやめて、ただひたすらに阿弥陀如来という仏様だけを頼りにしなさい」ということです。

ここで鍵となるのが「一心一向」という言葉。これは、心をあちこちに向けるのではなく、ただ一つの方向、阿弥陀如来だけに絞る、ということです。

私たちは苦しい時、「神様、仏様、どうかお願いします!」と、様々なものに手を合わせがちです。しかし、それは心のどこかで「自分の力」や「ご利益」を期待しているからかもしれません。

浄土真宗の教えがユニークなのは、救いは私たちが手を伸ばして掴み取るものではなく、すでに向こうから「必ず救う」という呼び声として届いている、と説く点です。

その呼び声に、ただ「はい」と頷き、すべてをゆだねる。それが「一心一向」の心なのです。

それは「もらう」もの。自分で作るものではない

「でも、信じようとしても、すぐに疑ってしまうのが人間じゃないか…」

その通りです。だからこそ、この信心は、私たちが自力で作り上げるものではありません。

この弥陀のお喚び声の聞こえたことを、真実信心とも一心とも申します。この他力真実の信心を弥陀如来の徳から『金剛不壞の真心』ともいわれるのです (出典: 聖典セミナー御文章115頁)

「金剛不壊(こんごうふえ)の真心」とは、決して壊れることのないダイヤモンドの心。この心は、私たちの努力の成果ではなく、阿弥陀如来からの「直々のプレゼント」なのです。

金剛不壞の真心ー教行信証の信分類はこちら

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

現代語訳

つつしんで、阿弥陀如来が私たちを浄土へ往生させるためにお与えになるはたらき(往相の回向)について考えてみると、そこには「大いなる信心」があります。この大いなる信心とは、すなわち、

  • 永遠のいのちを得させる、不思議な方法であり、
  • この穢れた世界を厭い、清らかな浄土を願い求める、優れた手だてであり、
  • 阿弥陀如来が選び取り、私たちに与えてくださる、まっすぐな心であり、
  • 他者を救おうとする、深く広大な慈悲から生まれた信じ喜ぶ心であり、
  • ダイヤモンドのように決して壊れることのない、真実の心であり、
  • 誰一人もらすことなく、たやすく浄土へ往生させてくださる、清らかな信心であり、
  • 阿弥陀如来の光に摂め取られ、護られる、疑いのない一つの心であり、
  • この上なくまれで、最も優れた大いなる信心であり、
  • 世の人々には信じがたい、悟りへの近道であり、
  • この上ない悟りをひらく、真実の原因であり、
  • きわめて速やかに円満な救いに至らせる白い道(白道)であり、
  • 絶対の真実そのものである、広大な信心の海であります。
この信心は、阿弥陀如来が「念仏によって必ず浄土に生まれさせる」と誓われた願(第十八願)から生じたものです。この大いなる願は、「選択本願」とも、「本願三心の願」とも、「至心信楽の願」とも、また「往相信心の願」とも呼ばれます。 しかしながら、常に迷いの世界に沈み、生まれ変わりを繰り返している愚かな私たちにとって、この上ない悟りの結果を得ることが難しいのではありません。真実の信心をいただくことこそが、本当に難しいのです。 なぜなら、この信心は、ただ如来が私たちに加えられるお力によるものであり、広く行き渡る大いなる慈悲と智慧のお力によるものだからです。 ひとたび、この清らかな信心をいただくことができたなら、その心は迷いによって覆されることはなく、偽りでもありません。 こういうわけで、この上なく罪が深く重い者であっても、大いなる喜びの心を得ることができ、すべての仏がたから深く愛されることになるのです。

あなたの心がどれだけ揺れ動き、不安に襲われようとも、プレゼントされた「真心」そのものが壊れることはありません。なぜなら、その持ち主はあなたではなく、阿弥陀如来だからです。

たとえ私たちがその存在を忘れてしまっても、阿弥陀如来の側では決して私たちを見捨てない。「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」—一度つかんだ手は、絶対に離さない。その光が、人生の最後まで私たちを護り、導いてくれるのです。

「死」が終わりでなくなる時

この壊れない心をいただいた人にとって、「死」のイメージは一変します。それは、すべてが無に帰す「消滅」ではなく、温かな光に満ちた世界へ帰っていく「凱旋」となるからです。

ある念仏者、鈴木章子さんは、自らの死を前にして、こう詠いました。

死の別離の、悲しみのむこうに、大いなるふる里の灯が見える

命終とは、自我の歴史の終止符であり、弥陀の歩みは、そのまま続くものである

愛する人との別れの悲しみが無くなるわけではない。しかし、その涙の向こうに、帰るべき「ふるさと」の灯りが見えている。生きてる時は、自我が前面にでて生活しており、阿弥陀仏の摂取が見えにくくなっています。命の終わりに自我が役に立たないことがわかり、より阿弥陀仏の救いがはっきりしたようです。彼女はさらに、遺される家族にこう伝えます。

きっとあなた達も別れの悲しみが、私のように喜びになるでしょう

これは、同じ道を歩むことで、悲しみさえも喜びに転換されていく力が与えられるという、確信に満ちたメッセージです。

私たちの心は、一枚の木の葉のように、常に風に吹かれて揺れ動いています。しかし、その頼りない心に、阿弥陀如来という決して壊れない錨(いかり)を下ろす時、私たちは人生のどんな嵐の中でも、穏やかでいられるのかもしれません。

その錨は、手を伸ばして掴むものではなく、ただ、あなたに届いている呼び声に、耳を澄ますことで与えられるのです。

参考文献

聖典セミナー 御文章 宇野行信 本願寺出版

浄土真宗聖典 註釈版 本願寺出版

[お読みいただくにあたって]

本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。

www.namuamidabu.com