浄土真宗のゴールは「安心」すること|蓮如上人に学ぶ「易往無人」の心
「信心(しんじん)を得る」と聞くと、何か特別な修行をしたり、強い意志で神仏を信じ続けたりする、少し難しいイメージがあるかもしれません。しかし、浄土真宗を再興された蓮如(れんにょ)上人は、その信心のことを「安心(あんじん)」、つまり「やすらかな心」なのだと教えてくださいました。今回は、有名な蓮如上人の『御文章(ごぶんしょう)』の一節、「易往無人章(いおうむにんしょう)」を通して、浄土真宗が目指す「信心」と「安心」の世界を一緒に味わってみたいと思います。
蓮如上人の『御文章』- 易往無人章
まず、今回取り上げる「易往無人章」の原文と現代語訳をご紹介します。原文の響きと、その意味を比べてみてください。
原文
しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒ごかいをたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀えようにあまるといふとも、盛者必衰じょうしゃひっすいのならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにたのみがたくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。……(中略)……この「一念の安心」一つにて浄土に往生することの、あら、やすうもいらぬとりやすの安心や。されば安心あんじんといふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』には、「易往(いおう)而(に)無人(むにん)」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。
(『註釈版聖典』1118-1119頁)現代語訳
静かに考えてみると、私たちが人間として生まれてきたのは、仏教で説かれる五つの戒め(五戒)を守った功徳によるものだとされています。これは非常に稀なことです。しかし、人間としての一生は、ほんの束の間の仮のものです。一方、来世(浄土に生まれること)は、永遠に続く安楽な世界です。たとえこの世で栄華を極め、贅沢の限りを尽くしたとしても、「勢いの盛んな者も必ず衰える」という道理の通り、長く続くものではありません。わずか五十年か百年の間のことです。それも、いつ死ぬかは老いも若きも定かではないと聞けば、本当に頼りにならないものです。だからこそ、今の時代の私たちは、阿弥陀如来のお力によっていただく信心を得て、浄土への往生を遂げたいと願うべきなのです。……(中略)……この「一念の安心」ただ一つで浄土に往生できるとは、なんとまあ、苦労もいらず、たやすく得られる「安心」なことでしょう。だから「安心」という二文字を「やすらかな心」と読むのは、この意味なのです。全くこちらからの計らいは必要なく、ただ一心に阿弥陀如来におまかせする信心一つで、極楽に往生できるのです。なんと、分かりやすい「安心」なことか。なんと、往きやすい浄土なことか。このことから、『大無量寿経』には「往き易くして人無し(易往而無人)」と説かれているのです。この言葉の意味は、「安心を得て、ひたすら阿弥陀仏を頼むならば、浄土へはまことに往きやすい。しかし、その信心をいただく人が稀であるから、浄土は往きやすいけれども、実際に行く人はいない」ということなのです。
仏教独自の言葉「安心(あんじん)」とは?
私たちは「信心」と聞くと、どうしても「自分が何かを信じる」という、自分から対象に向かう行為を思い浮かべがちです。しかし、蓮如上人は、浄土真宗の信心をあえて「安心(あんじん)」という言葉で表現されました。これは、ただの言い換えではありません。そこには深い意味が込められています。
「信心」と「安心」の大きな違い
一般的な「信心」は、自分の力で信じ、修行し、善い行いを積まなければならない、という「自力」の心が根底にあります。親鸞聖人はこれを「わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」心だとおっしゃいました。自分の信じる心が揺らいだら全てが崩れてしまうため、このような立場に立つ人は、時に独りよがりになり、「信心過ぎて極楽を通り越す」ということわざのように、頑張りすぎてかえって道を外れてしまうことさえあります。
これに対して、蓮如上人が示された「安心」は、「やすきこころ」と読みます。これは、私たちが努力して作り出す安らかな心ではありません。そうではなく、阿弥陀如来さまの側からの「必ず救う」という先手のはたらきかけによって、私たちの心に生まれる安らぎなのです。だから、浄土真宗では古くから敬意を込めて「ご信心」「ご安心」と呼んできました。
この「一念の安心」一つにて浄土に往生することの、あら、やすうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。
私たちが何かをする必要がないから「やすきこころ」。阿弥陀様からいただくものだから「ご安心」。この言葉の響きの中に、他力の教えの温かさが凝縮されています。
「易往而無人」- なぜ、往きやすい浄土に行く人がいないのか?
蓮如上人は、この「安心」一つで極楽に往生できるのだから、「あら、往きやすの浄土や」と感嘆されます。これほど簡単な道はない、と。そして、その根拠として『大無量寿経』の「易往(いおう)而(に)無人(むにん)」という言葉を引かれます。
易往(いおう)- この上なく往きやすい道
「易往」とは、「往きやすい」ということです。なぜ往きやすいのか。それは、私たちの側の努力や功績、善悪、賢いか愚かか、男性か女性か、老いているか若いか、といった一切の条件を問わないからです。
さらになの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。
「なの造作もなく」とは、こちらからの計らいや努力は一切不要だ、ということです。ただ、阿弥陀様を「一心一向にたのむ」、つまり、ただひたすらおまかせする。それだけでいい。だから「往きやすい」のです。
無人(むにん)- それでも行く人がいない現実
しかし、お経の言葉は続きます。「而(に)無人(むにん)」、つまり「しかし、行く人がいない」と。こんなにも簡単で、誰にでも開かれている道なのに、なぜそこを歩む人がいないのでしょうか。
ここに、私たち人間の悲しい性(さが)が示されています。それは、どうしても「自力」から離れられない、ということです。私たちは、「ただ、おまかせするだけ」というシンプルな道の前で、かえって不安になってしまうのです。
人間のあさましい姿
念仏詩人の榎本栄一氏は「ふみはずしましたが、気がつけばここも仏の道でございました」と詠みました。私たちは仏道というまっすぐな道を歩もうとしても、すぐに自分の考えや都合で道を踏み外してしまう存在です。しかし、そんな私たちだからこそ、阿弥陀様の「必ず救う」という光が目当てとしてはたらいてくださる。蓮如上人は、この世の人生が「わづかに一旦の浮生なり(はかない仮の宿りだ)」と見抜かれた上で、そんな私たちをこそ目当てとする阿弥陀様の慈悲を深く味わっておられたのです。
「本当にこれだけで大丈夫だろうか?」「何か善いことを付け加えた方がいいのではないか?」「もっと真剣に信じなければならないのではないか?」…。次から次へと自分の考え(自力の計らい)が湧き起こり、阿弥陀様が用意してくださった「往きやすい道」を、自ら「難しい道」に変えてしまうのです。
「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」
蓮如上人が解説されるように、問題は道の側にあるのではなく、道を歩もうとする私たち自身の側にあるのです。自分の力を頼りにしている限り、私たちは阿弥陀様のはたらきを素直に受け取ることができません。だから、往きやすい浄土なのに、そこへ至る人がいない、という悲しい現実が生まれてしまうのです。
結論:ただ一心に、阿弥陀さまをたのむ
「易往無人章」が私たちに教えてくれるのは、浄土真宗の救いが、私たちの努力や能力にかかっているのではなく、ひとえに阿弥陀如来の本願力(他力)によるということです。
私たちが救われるために必要なことは、何かを成し遂げることではありません。むしろ、何もできない自分、罪深い自分のままで、ただ「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀様におまかせすることです。
その時、私たちの心には、自分が作り出したのではない、阿弥陀様からいただいた「やすらかな心」、すなわち「安心(あんじん)」が定まるのです。この安心こそが、浄土に生まれる確かな印となります。
往きやすいけれど、行く人が少ない道。その原因である「自力」の心を振り返り、ただ一心に阿弥陀様をたのむ。蓮如上人は、そのシンプルな一点を、生涯をかけて私たちに伝え続けてくださいました。
【お読みいただくにあたって】
本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。
参考文献