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お念仏は仏からのお呼び声|蓮如上人『御文章』「横截五悪趣章」のこころ

 

煩悩まみれの「私」こそが救いの目当て―蓮如上人『御文章』横截五悪趣章のこころ

「一体、仏さまはどんな人を救ってくださるのだろうか?」

「善い行いもできず、煩悩にまみれた自分は、到底救われないのではないか…」

浄土真宗の教えに触れるとき、多くの人がこのような疑問や不安を抱きます。その問いに対し、中興の祖・蓮如上人は、短いお手紙である『御文章』を通して、明快な答えを示してくださいました。

今回はその一通、「横截五悪趣章(おうじょうごあくしゅしょう)」を拝読し、阿弥陀如来の救いが、誰に向けられ、どのように私たちに届いているのかを、ご一緒に味わってみたいと思います。

横截五悪趣章【本文】

それ、弥陀如来の超世の本願と申すは、末代濁世の造悪不善のわれらごときの凡夫のために、おこしたまへる無上の誓願なるがゆゑなり。……(中略)……一心一向に弥陀一仏に帰命する衆生をば、いかに罪ふかくとも仏の大慈大悲をもつてすくはんと誓ひたまひて、大光明を放ちて、その光明のうちにをさめとりますまじゆゑに、このこころを『経』には「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と説きたまへり。されば五道・六道といへる悪趣にすでにおちむくべきみを、弥陀如来の願力の不思議としてこれをふさぎたまふなり、このいはれをまた『経』には「横截五悪趣悪趣自然閉」と説かれたり。

(註釈版聖典 一一二四~五頁)

【現代語訳】

そもそも、阿弥陀如来のこの世の常識を超えた本願というのは、末法の濁った世において、善いことができず悪ばかりを造ってしまう、私たちのような凡夫のために起こしてくださった、この上ない誓願であります。

(中略)

一心に、ひたすら阿弥陀如来一仏におまかせする衆生を、どれほど罪が深くとも、仏の広大な慈悲の心によって必ず救おうと誓って、大いなる光明を放ち、その光の中に摂め取ってくださるのです。このことをお経には「光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂め取って決して見捨てはしない(光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨)」と説かれています。

それゆえに、地獄・餓鬼・畜生といった悪い世界(悪趣)へまさに堕ちていくはずのこの身を、阿弥陀如来の願力の不可思議な働きによって、その道を横にさえぎり、塞いでくださるのです。この理由をまたお経には「横に五つの悪趣をさえぎれば、悪趣は自然に閉ざされる(横截五悪趣悪趣自然閉)」と説かれているのです。

「われら」と「私一人」―救いの目当ては誰か

蓮如上人は、阿弥陀如来の本願の目当てを「末代濁世の造悪不善のわれらごときの凡夫のため」と、明確に示されました。これは、宗祖・親鸞聖人が『歎異抄』で述べられた、あの有名な言葉を思い起こさせます。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」

【解説】「ひとへに親鸞一人がためなりけり」とは

この言葉は、阿弥陀如来の広大な救いが、他人事ではなく、この罪深い「私一人」にまっすぐ向けられていたのだという、親鸞聖人の深い感動と発見を表現したものです。これは決して「自分は特別だ」という傲慢な心ではなく、むしろその正反対の心境から生まれています。

どういう意味か?

文字通りには、「阿弥陀如来が、想像もつかないほど長い時間(五劫)をかけて考え抜かれた本願を、よくよく考えてみると、それはひとえに、この親鸞一人のためであったのだなぁ」という意味です。これは、壮大で普遍的な救いが、個人的な救いとして受け止められた瞬間を示しています。

例えば、国全体に向けられた国王の恩赦の知らせがあったとします。それを多くの人は「ふーん、みんなが助かるんだな」と他人事として聞くかもしれません。しかし、死を待つばかりの罪人がその知らせを聞いたとき、「王様は、他の誰でもない、この私を助けるために、この恩赦を出してくださったのだ!」と、全身でその救いを受け止めるでしょう。

親鸞聖人は、自分自身を救いようのない罪深い凡夫(罪人)だと深く見つめていました。だからこそ、すべての人を救うという阿弥陀如来の誓いが、「他の誰のためでもない、まさにこんな私のためにこそ、建てられたのだ」と、直接的で個人的な呼びかけとして聞こえたのです。

どのような心境か?

  • 驚きと深い感動: 宇宙的なスケールで、想像を絶する長い時間をかけた阿弥陀如来の御苦労が、すべて「この私」のためだったのか、という計り知れない慈悲に対する驚きと感動です。
  • 絶対的な安心感(安心立命: 救われるかどうかを自分で心配する必要がなくなった、究極の安らぎです。「私」が救われることは、私が生まれるずっと前に、すでに阿弥陀様が計画し、決定してくださっていた。その事実に気づいた時の、心の底からの安心感です。
  • 深い感謝と謙虚さ: 「自分は救われる価値がある」という自惚れとは真逆です。「こんな救いようのない私のために、そこまでしてくださったのか」という、申し訳なさと感謝の念(報恩感謝)が溢れ出る心境です。自分がいかに愚かであるかを知れば知るほど、如来の慈悲のありがたさが身に染みるのです。

🙏 この一句は、浄土真宗の教えが単なる思想や哲学ではなく、一人ひとりの心に届き、人生を根底から支える、生きた救いであることを、最も力強く示している言葉と言えます。

教団を指導する立場であった法然上人や蓮如上人は、すべての人々を包含する「われら」という言葉を使われました。しかし、蓮如上人が遺した普段の言葉(『御一代記聞書』)には、「南無阿弥陀仏の主に成る」「南無阿弥陀仏に身をばまるめためる」とあるように、布教の第一人者でありながら、同時に阿弥陀如来の救いをただ一人聞き開いていく「聞法者」としての姿が色濃くうかがえます。

【解説】「南無阿弥陀仏の主に成る」「南無阿弥陀仏に身をばまるめためる」とは

これらの言葉は、浄土真宗の信心の核心を生き生きと表現したもので、自己の力を完全に手放し、阿弥陀如来の働き(南無阿弥陀仏)にすべてを委ねきった心境を表しています。それは、自らの力で自分を救おうと必死にもがくことをやめた時に訪れる、深い安らぎと解放感です。

南無阿弥陀仏の主に成る」— 私の人生の主人が入れ替わる

これは「私が人生の主人であるという思い込みを捨て、南無阿弥陀仏に私の主人になっていただく」という意味です。私たちは普段、自分の知恵や努力、判断を頼りにして「私が自分の人生の主人だ」と考えて生きています。しかし、蓮如上人が示す心境は、その主人の座を明け渡すことです。

  • 意味合い: 自分の計らい(自力)で善悪を判断したり、救われようとしたりすることをやめる。人生の舵取りを、自分の小さな手から、阿弥陀如来という大いなる働き(他力)へと完全に委ねること。
  • 心境: これまで「自分が何とかしなければ」と背負っていた重荷を下ろしたような、大きな安堵感と解放感に満たされています。心配や不安は、主人である阿弥陀様が引き受けてくださるのだから、自分はただその働きにお任せすればよい。そのような、絶対的な信頼に基づいた穏やかな心境です。

南無阿弥陀仏に身をばまるめためる」— 全存在を丸ごと投げ出す

これは「自分の身(全存在)を丸ごと一つにして、南無阿弥陀仏の中に投げ入れてお任せする」という、より身体的でダイナミックな表現です。「まるめる」という言葉には、何もかも一つに丸め込む、という強いイメージがあります。

  • 意味合い: 自分の善いところも悪いところも、賢さも愚かさも、喜びも悲しみも、そのすべてを分別せず、ありのままの自分を一つの塊として、阿弥陀-仏の救いの中にポーンと投げ込んでしまうことです。「こんな私ですが、丸ごとお願いします」という全面的な降参であり、絶対的な帰依の姿です。
  • 心境: 「救われるために、ここを直さなければ」といった条件付けが一切なくなった状態です。どんな自分であっても、そのままの姿で、まるごと受け入れられているという深い安心感に包まれています。まるで、赤ん坊が母親の腕の中に身を丸めて、完全に安心して眠っているような心境です。

🙏 この二つの言葉は、人間の計らいを捨てた先にある、広大で温かい阿弥陀如来の救いの中に、ただ安心して抱かれている喜びを、蓮如上人自身の言葉で率直に語ったものと言えるでしょう。

つまり、阿弥陀如来の救いは、漠然とした「人々」に向けられているだけでなく、この「私一人」に、まっすぐに向けられているのです。

自分さえ知らない「心の部屋」と六道の苦しみ

では、救いの目当てである「造悪不善の凡夫」とは、どのような存在なのでしょうか。私たちは、自分自身のことを一番よく知っていると思っています。しかし、本当にそうでしょうか。

人間は、誰にも見せたことのない、否、自分さえ気づいたことのない心の部屋を持ち続けているのでしょう。

この「自分さえ気づいたことのない心の部屋」が、何かの縁に触れたとき、愛と憎しみの渦となって現れます。仏教では、この争いや悩みの尽きない人間の生き様を「五道・六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)」という世界で象徴的に表します。地獄や餓鬼の世界は、どこか遠くにあるのではなく、私たちの心の中にあり、日々の暮らしの中にその姿を現すのです。

阿弥陀如来は、そんな私たちの愚かさ、浅ましさをすべてお見通しの上で、「一人として見捨てることなく、漏らすことのない願い」を建ててくださいました。

救いの具体的な姿 ― お念仏は「お呼び声」

では、その救いは、具体的にどのような形で私たちに届いているのでしょうか。それは、驚くべきことに、私たちの最も身近なところにありました。

阿弥陀如来の大悲に包みこまれ、摂めとられるという具体的な姿というのは、申すまでもなく、現にこの口から「南-無阿弥陀仏」と出てくださっているところにあらわれています

親鸞聖人は、このお念仏を「本願招喚の勅命(ほんがんしょうかんのちょくめい)」、すなわち「阿弥陀如来が私を招き喚んでくださる仰せ」と味わわれました。

聖人は、ただ「呼ぶ」のではなく、「喚ぶ(よばう)」という字にこだわられました。

  • 「呼」:遠くにいる相手への呼びかけであり、距離があります。
  • 「喚」:眠っている子どものそばに行き、肩を揺りぶりながら耳元で何度も呼びかけるような、切実で、距離のない、絶え間ない呼びかけです。

この「お喚び声」は、遠い極楽から聞こえてくるのではありません。この私の口を通して「南無阿弥陀仏」と発せられ、それを私の耳が聞いているのです。その声は、「おまえの親はここにいるぞ、引き受けた、安心せよ」という、如来様からのメッセージに他なりません。

私たちが「南無阿弥陀仏」と称えている姿そのものが、すでにもれなく救いの中にいる(摂取不捨)姿なのです。だからこそ、どれほど「自分は地獄に堕ちる身だ」と思い悩んでも、如来様の不可思議な働きによって、おのずと浄土へ参る身とさせていただいているのです。

この偉大な働きを、蓮如上人は「横截五悪趣、悪趣自然閉(悪趣を横にさえぎれば、悪趣は自然に閉ざされる)」というお経の言葉で、心から喜ばれたのでした。

 

参考文献

聖典セミナー 御文章 宇野行信 本願寺出版

www.namuamidabu.com