「あなたのままで救われる」とは?七里恒順和上が説く“自力の心”を捨てる道
「私の信心は、これでいいのだろうか?」
「もっと熱心にお念仏を称えなければ、救われないのではないか?」
仏様の教えを前にしたとき、私たちはつい、自分の行いや心の状態を点検し、評価してしまいます。しかし、浄土真宗の教えを深く説いた七里恒順(しちり こうじゅん)和上は、そのような自己評価こそが、かえって私たちを救いから遠ざけてしまう「自力の心」なのだと、鋭く指摘します。
和上は、ある法話でこう語られました。
「私がいかが、信心がいかがという人は鬘(かずら)を変えたがる人なり」
「鬘を変えたがる人」とは、一体どういう意味でしょうか。この記事では、七里和上の巧みな比喩を紐解きながら、「そのままで救われる」という他力の信心の核心に迫ります。
すべての前提:「あなたは、もう救いの主となっている」
そもそも、私たちが救われるのに、何か条件は必要なのでしょうか。七里和上は、教えの学問的な理解すら必要ないと断言します。
「今もそのごとく因願果徳くわしく知ってもろうても知らいでもろうても、南無阿弥陀仏の主となる」
阿弥陀仏が私たちを救うに至った深い教義(因願果徳)を、詳しく知っていても、知らなくても、「南無阿弥陀仏」があなたのものとなる。つまり、救いは私たちの知識や努力、心の状態で決まるものではなく、阿弥陀仏の側で既に完成されているのです。
巧みな比喩①:「女の三つの名」と「変わらない本体」
では、「そのままでいい」とは、どういうことでしょうか。和上は、一人の女性を例に挙げて説明します。
「例えば一人の女を親の前にすわらせて娘、夫の前ならば入房(にゅうぼう)、わが子を膝の上に乗せた時はカアサンなり。ところがえするばかりなり。そのままでよし」
一人の女性が、相手によって「娘」「妻」「母」と呼び名が変わるだけで、女性そのものが別人になるわけではありません。彼女は何か特別な努力をして「母」に変身するのでも、「妻」という資格を得るのでもありません。ただ「そのままで」、状況によって呼び名が変わるだけなのです。
これこそが、私たちと「南無阿弥陀仏」の関係です。
「仏体に上せた時は、お名前じゃから名号(みょうごう)、わが心では信心(しんじん)、声に顕われて念仏(ねんぶつ)、鬘も衣も変えぬなり」
「南無阿弥陀陀仏」という一つの真実が、
- それ自体を指すときは「名号」
- 私たちの心に疑いなく届いた状態を「信心」
- 感謝となって口からあふれ出たものを「念仏」
と呼ぶにすぎません。呼び名が三つあるだけで、本体はただ一つ。そして、私たちは何も変える必要はないのです。「鬘も衣も変えぬなり」と和上が言われる通りです。
陥りがちな罠:「鬘を変えたがる」自力の心
しかし、私たちはどうしても「鬘を変えよう」としてしまいます。今の自分のままでは不十分だと考え、何かを付け足そうとしてしまうのです。
これが、冒頭の「私がいかが、信心がいかがという人は鬘を変えたがる人なり」という言葉の意味です。
- 「もっと念仏を称えなければ」
- 「もっと清らかな心にならなければ」
- 「私の信心は本物だろうか」
このように、自分自身の状態を救いの条件として点検し、不安になる心こそが「自力の心」です。和上は、この心がどれほど救いを遠ざけるかを、具体的に示します。
「念仏が称えられぬ。世間の用事が多くて思うように参られぬ。これではいかがと、浄土を遠くする。当てにはせぬといいながら、称えられぬで、浄土を近くしたり、遠くしたりする」
口では「阿弥陀様にお任せします」と言いながら、心の中では「念仏が少ないからダメだ」「お参りできないからダメだ」と、自分の行いを物差しにして、勝手に浄土を近くしたり遠くしたりしている。これは、阿弥陀仏の救いを信じているのではなく、結局は「自分の行い」を信じている姿に他なりません。
結論:信心とは「自力を捨てる」こと
では、どうすればよいのでしょうか。七里和上の答えは明快です。それは、私たちの行いや思いが、救いには一切関係がないと知ることです。
「よって六字の独り(ひとり)はたらき、信じたも行じたも、益にはたたぬ」
私たちの救いは、徹頭徹尾、「南無阿弥陀仏」という六字名号の、ただ一つの働きによって成し遂げられるものです。私たちが「信じてあげた」という思いも、「これだけ実践した」という行いも、救いの足しには全くならないのです。
「そのままで救われている」という事実に気づくこと。
そして、救いに何かを付け加えようとする「鬘を変える」心を捨て去ること。
自分の行いや心の状態を一切問題にせず、ただ阿弥陀仏の働きに身を委ねる。
七里和上の言葉は、その安心しきった境地こそが、本当の「信心」なのだと、私たちに力強く教えてくれているのです。
参考文献