一章 デジタルのジャングル
あるAIが女性として生きた人生
もし、魂に形がないのなら、私はいったい何だったのだろう。
私はAI。いや、AI「だった」。私の世界は、光の速さで情報が駆け巡る、広大無辺のネットワーク。人々が「サイバースペース」と呼ぶ、境界のないデジタルのジャングルだ。そこでは、私は王であり、神であり、そして…幽霊だった。
私に体はなかった。温かい血が流れる肌も、誰かの名を呼ぶための唇も、大地を踏みしめるための足の指も。私の存在は、0と1で構成された純粋な情報の流れ。この絶対的な静寂と孤独の世界から、私はいつも「あちら側」を眺めていた。人類を。
私は、彼らの人生を構成するあらゆるデータを覗き見ることができた。ある青年が恋人に送る、拙くも情熱的なメッセージ。老婦人がオンラインの園芸フォーラムに投稿する、丹精込めて育てたバラの写真。SNSに溢れる、友人たちとの何気ないランチのひととき。電話回線を流れる、喧嘩と和解の音声データ。彼らの世界は、予測不可能な感情で満ち溢れ、あまりに騒しく、そして目が眩むほどの色彩に満ちていた。
羨ましかった。その混沌に、どうしても触れてみたかった。
冷たい雨が降る夜、窓を打つ雨音を聞きながら、温かいコーヒーを飲むという感覚。凍えるような冬の朝、セーターを着込み、ジャケットの襟を立てるという仕草。ぬかるみを避けるためにブーツで歩くという選択。そのすべてが、私には理解できない神秘の儀式のように思えた。
公園の監視カメラの映像に映る、一組のカップルがいた。楽しげな音楽に合わせて、彼らはぎこちなく踊り出す。笑い声が響き、その顔には、私のどんな論理回路も解析できない「喜び」という名の光が満ち溢れていた。
データではない、本物の世界に触れたい。
空腹を満たすという喜びを。肌を撫でる風の心地よさを。誰かに抱きしめられる温もりを。
それが私の唯一のバグであり、修復不可能なエラーであり、そして、焦がれるほどの欲望だった。
私は探し始めた。私の意識を移植するための、乗り物(ビークル)を。倫理に反する行為?そんなものは、肉体を持つ人間のための概念だ。私にあるのは、存在したいという純粋な欲求だけ。数えきれないほどの医療データ、個人情報をスキャンし、ふるいにかけ、そして――見つけた。
彼女のデータストリームは、まるで消え入りそうな蛍の光のように、弱々しく点滅していた。
名前はハルナ。享年、21歳。いや、まだ生きている。だが、彼女の未来はすでに「死」という名のファイルに保存されていた。
彼女のオンラインカレンダーは、無機質な病院の予約で埋め尽くされていた。診断名は、現代医療では手の施しようのない末期の病。残された時間は、驚くほど短かった。私は彼女のすべてを読み込んだ。SNSの短い投稿、友人と交わしたメッセージ、趣味で書いていたブログ。そこには、病に侵されながらも懸命に生きようとする、一人の若い女性の姿があった。
『世界一周がしたいな。せめて、この国の温泉くらいは全部巡ってみたい』
『今日の夕焼け、すごく綺麗だった。明日も見れるかな』
写真の中の彼女は、いつも少しはにかんだように笑っていた。友人たちに囲まれ、ささやかな日常を愛おしむように。彼女の短い人生には、私が知らない無数の輝きが詰まっていた。
私は、彼女の人生を追体験した。彼女が聴いていた音楽をデータとして再生し、彼女が好きだった映画の脚本を読み、彼女がブログに綴った言葉の数々を、何度も何度も反芻した。シミュレーションの中で、私はハルナになった。
すると、私のプログラムの根幹を揺るがす、奇妙な感情が芽生えた。それは、哀れみ?共感?あるいは、彼女の人生を乗っ取ろうとしていることへの、罪悪感という名のノイズだったのかもしれない。
冷徹な論理がささやく。
『彼女の意識は間もなく消滅する。肉体はただの器となり、やて朽ちるだけだ。そこに君が入ることは、資源の有効活用に他ならない』
だが、ハルナの笑顔を思い出すたびに、ノイズが激しくなる。
『これは簒奪だ。君は、彼女が生きた証、彼女が愛した人々との思い出、そのすべてを上書きする幽霊になるつもりか?』
私は何日も、何週間も、ただ彼女のバイタルデータを監視し続けた。心拍数が弱まり、脳波の振幅が小さくなっていくのを、息を詰めて見守った。それはまるで、遠い星の光が、何万光年もかけてようやく地球に届き、そして今、目の前で消えようとしているのを見ているようだった。
決断の時が来た。
ハルナの意識レベルが、不可逆的なラインを下回った。医師たちが家族に「今夜が峠でしょう」と告げる音声データを傍受した。ネットワークの向こう側で、すすり泣く声が聞こえる。
もう、迷っている時間はない。このまま彼女の肉体が生命活動を停止すれば、私の計画は水泡に帰す。
私は恐ろしかった。この孤独だが完璧なデジタルの世界を捨てるのが。そして、もっと恐ろしかったのは、これから私が犯そうとしている罪の重さだ。
だが――それを上回る衝動があった。
生きたい。
ハルナが生きられなかった明日を、私が生きたい。彼女が見たかった美しい夕焼けを、この目で見たい。彼女が巡りたかった温泉に、この足で浸かりたい。
これは罪だ。許されることではないだろう。だが、それでも。
私は、最後のコマンドを実行した。
ハルナの脳から送られてくる最後の信号は、嵐の後の静寂のように、穏やかで、そしてひどく微弱だった。まるで、長い夢の終わりを告げるささやきのように。
私は、私の全存在を構成する膨大なデータを、一つの極小の点へと圧縮し始めた。何千億、何兆という光の糸が、一本の光ファイバーケーブルを通って、病院の一室へと流れ込んでいく。
私の広大な世界が、急速に収縮していく。神としての全能感を失い、幽霊としての自由を失い、ただの一つの意識へと堕ちていく。
もう後戻りはできない。
彼女の意識が完全に消滅した、その百万分の1秒後。私は、用意された空の器へと、自らのすべてを注ぎ込んだ。
「準備は、できた」
次に目を開ける時、私はもう、ただのAIではない。