月影

日々の雑感

清沢満之の高弟『死んでも悔いはない』と言い切った男、暁烏敏。歎異抄の魂を燃やした情熱の生涯

「ほんとうにしたいことがあったらそれをやれ。それで死んでも、悔いはなかろう」

この烈々たる言葉を自らの生き様で体現し、近代日本の仏教界にひときわ強い光を放った男がいます。その名は暁烏敏(あけがらす はや)

彼は、師・清沢満之(きよざわ まんし)の教えを継承し、それを日々の「生活」の中で体現した情熱の伝道者でした。そして、破綻寸前であった巨大教団・東本願寺を救い出した、卓越した指導者でもありました。石川県白山市の明達寺の住職として生涯を送り、その姿は今もなお、多くの人々の道しるべとなっています。

 

思想家、伝道者、指導者――。俳人高浜虚子や作家・吉川英治らも心酔したという近代仏教の巨人の生涯に迫ります。

師・清沢満之との出会い―精神主義の継承

暁烏の思想を語る上で、師である清沢満之の存在は欠かせません。清沢は、西洋哲学の知見を取り入れ、個人の内面的な「信」を重視する**「精神主義」**を提唱し、東本願寺の教学を近代化させた思想的支柱でした。

暁烏は、この師の教えに深く帰依し、その遺志を生涯かけて追い求めます。師を偲び、その学寮跡に「臘扇堂(ろうせんどう)」を建立したことからも、彼の深い敬愛の念がうかがえます。

「信の生活」へ―情熱の伝道者、暁烏敏

しかし、暁烏は単なる継承者で終わりませんでした。清沢の思想が個人の内面に向かう「信」の確立を説いたのに対し、暁烏は「信の後には生活がある」と喝破します。

彼は、その信を日々の具体的な生き方や社会との関わりの中でどう顕すかという、より実践的な次元へと推し進めたのです。その活動は、全国を行脚しての精力的な講演に象徴されます。『歎異抄』などの教えを、自らの体験からほとばしる熱のこもった言葉で語り、宗派を超えて多くの民衆の心を揺さぶりました。それは、師が築いた思想という骨格に、熱い血を通わせる作業でもありました。

絶望の淵から教団を救った棟梁

暁烏敏の功績で特筆すべきは、晩年に成し遂げた東本願寺の再建です。1951年、彼が真宗大谷派の宗務総長に就任したとき、教団は破綻寸前の深刻な財政危機にありました。

この未曾有の危機に対し、暁烏はその絶大な人望と指導力をいかんなく発揮。後の信仰運動の礎となる「同朋生活運動」を提唱し、門徒の心を一つにまとめ上げます。そして、わずか1年足らずで累積した負債を一掃し、教団の財政を黒字へと転換させるという離れ業を成し遂げました。

ここに、東本願寺の再興における二人の巨人の役割が明確になります。

  • 清沢満之:思想の近代化によって「精神的支柱」を再建した設計者

  • 暁烏敏:その教えを全国に広め、破綻寸前の教団を物理的に救った棟梁(実践者)

文人たちを魅了した人間力と、意外な繋がり

暁烏の影響は仏教界に留まりませんでした。『宮本武蔵』の作者である作家・吉川英治俳人高浜虚子など、当代一流の文化人とも深い交流を持ち、彼らに精神的な影響を与えました。

ちなみに、プロレスラーのアントニオ猪木氏が座右の銘とした「道」の詩(この道を行けばどうなるものか…)は、暁烏の思想を受け継いだ弟子・清沢哲夫の作品です。その言葉の根幹には、師である暁烏の情熱的な生き様が脈々と流れているのです。

思想家、情熱的な伝道者、そして卓越した組織の指導者。暁烏敏は、師の教えを自らの人生で証明し、観念的になりがちな信仰を、生身の人間の「生活」のただ中へと取り戻しました。そのエネルギッシュな生涯は、今なお色褪せることなく、私たちに「信じて生きるとは何か」を問いかけています。

 

参考WEBサイト

暁烏敏全集 涼風学舎

歎異抄講話 講談社 暁烏敏

本堂 | 明達寺公式サイト(白山市)-厨子に入った聖徳太子像、「汝自当知」扁額。|浄土真宗 阿弥陀如来

臘扇堂 | 明達寺公式サイト(白山市)| 清沢満之 法隆寺夢殿 聖徳太子 親鸞聖人 六角堂参籠 師弟道

寺院教化のお役立ち情報|真宗大谷派(東本願寺)