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日々の雑感

【解説】白隠慧鶴の禅を継いだ二人の天才弟子「東嶺円慈」と「遂翁元盧」の功績

駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と謳われた白隠慧鶴。彼の偉大さは、自身の禅の境地の深さや、民衆を惹きつけた教えだけにあるのではありません。

白隠の真の天才性は、彼の禅が一代で終わることなく、後世へと力強く受け継がれる「仕組み」と「魂」を遺したことにあります。そして、その巨大な遺産を支えたのが、二人の傑出した弟子、東嶺円慈(とうれいえんじ)遂翁元盧(すいおうげんろ)でした。

一人は「理論家」、もう一人は「実践家」。この対照的な二人の天才が、いかにして師・白隠の禅を盤石なものにしていったのか。その物語を紐解いていきましょう。

 

「理論の東嶺」― 白隠禅の設計図を描いた知性

 

東嶺円慈(とうれいえんじ, 1721–1792)

白隠の教えを学問的に体系化し、後世の修行者が学ぶための「教科書」を完成させた学者肌の弟子。

近江国(現在の滋賀県)の儒学者の家に生まれた東嶺は、まさに知性の人でした。彼は、師である白隠の広大で、時に情熱のほとばしりのままに説かれる教えを、冷静かつ論理的に整理し、後世の誰もが学べる形に体系化するという大事業を成し遂げます。

 

東嶺の功績:『宗門無尽燈論』の完成

 

東嶺の最大の功績は、不朽の名著『宗門無尽燈論(しゅうもんむじんとうろん)』を著したことです。これは、白隠禅の教科書とも言うべき一冊で、以下のような役割を果たしました。

  1. 公案体系の整理: 白隠が用いた膨大な公案を整理し、修行者がどのような段階を経て悟りに至るのか、その道筋を明確にしました。

  2. 禅の理論化: 「見性(けんしょう)」とは何か、「悟後の修行」とはどうあるべきか。白隠が実践の中で示していた禅の核心を、理論的な言葉で定義し、解説しました。

  3. 教育システムの確立: この本があるおかげで、白隠門下以外の僧も、白隠禅の構造を正確に理解し、修行の指針とすることが可能になりました。

もし白隠が、その場のインスピレーションで最高の料理を作る「天才料理人」だったとすれば、東嶺は、その秘伝のレシピを寸分の狂いなく書き起こし、誰でもその味を再現できる「レシピブック」を完成させた人物と言えるでしょう。東嶺の知性がなければ、白隠の教えは個人のカリスマ性に依存した、一代限りの芸術で終わってしまったかもしれません。峨山慈棹(がざんじとう)の指導も行いました。

「実践の遂翁」― 白隠の魂を体現した禅僧

 

遂翁元盧(すいおうげんろ), 1717–1789)

師の禅風を最も色濃く受け継ぎ、その厳しい指導法で数多の優れた弟子を育て上げた、白隠の「生き写し」とまで言われた実践家。

遂翁は、東嶺とはまさに対極にいるような禅僧でした。彼は、白隠の「虎視牛行(こしぎゅうこう)」(虎のように鋭く、牛のように粘り強い)と評された禅風、つまり修行者にとことん厳しく、それでいて深い慈悲をもって接するスタイルを、骨の髄まで受け継いでいました。

 

遂翁の功績:生きた禅の「熱量」の伝達

 

彼の道場は、生半可な覚悟の者をすべて焼き尽くすほどの熱気に満ちていたと言われます。

  • 厳しい指導: 遂翁の指導は、情け容赦のない厳しいものでした。修行僧を徹底的に追い込み、理屈や小手先の理解を打ち砕き、全身全霊で公案にぶつからせるその様は、まさに鬼神のようだったと伝えられます。

  • 温かい人間性 しかし、その厳しさは、修行僧の仏性を信じ抜く深い慈悲から来るものでした。一度修行僧を認めれば、とことん面倒を見る。その温かさに触れた弟子たちは、心から遂翁を慕いました。

  • 多くの法嗣の育成: 遂翁はその生涯で、東嶺をはるかにしのぐ数の弟子を育て上げ、全国に白隠禅の「火種」を広めることに成功しました。彼の弟子たちが、各地でさらに弟子を育て、白隠の法系は爆発的に拡大していきました。

もし東嶺が「レシピブック」を完成させたなら、**遂翁は、そのレシピを元に師と寸分違わぬ料理を作り、さらにはその調理法を何人もの後継者に叩き込む「鬼の料理長」**だったと言えます。遂翁の熱量がなければ、白隠禅は理論だけの、魂の抜けた「仏教研究」になってしまったかもしれません。

 

二人の役割 ― 車の両輪として

 

東嶺と遂翁。一見すると正反対の二人ですが、彼らはまさに**「車の両輪」**として、白隠禅という巨大な車を未来へと推し進めました。

  • 理論(東嶺)が「骨格」となり、

  • 実践(遂翁)が「血肉」となった。

東嶺が遺した「設計図」があったからこそ、遂翁の育てた多くの弟子たちは、迷うことなく正しい方向に修行を進めることができました。

そして、遂翁が伝えた「生きた魂」があったからこそ、東嶺の遺した理論は、単なる文字の羅列ではなく、血の通った実践の指針として機能したのです。

白隠の慧眼は、この二人の弟子の異なる才能を見抜き、それぞれに最も適した役割を与えた点にもあります。一人の天才の思想が、これほど盤石な形で後世に受け継がれた例は、世界史的に見ても稀有と言えるでしょう。

白隠の教えが今なお、臨済宗の支柱として息づいているのは、この知性と実践、理論と魂を担った二人の傑物が存在したからに他ならないのです。

 

付記

東嶺が自分の信条を白隠に伝えたものの現代語訳を載せます。

東嶺円慈について・滋賀県大徳寺 より

第一条 どれほど多くの期待を寄せられ、師から正式に法を受け継いだとしても、決してその立場に安住し、安楽な場所(松蔭)に隠居するようなことはしない。これが一つ目の誓いである。

第二条 (自分の進めることの)数多くの成功や失敗、その全ての結果について、他人の意見や口出しは一切受け入れない(全て自分の責任で決断し、行動する)。これが二つ目の誓いである。

第三条 私はもともと、一か所にとどまらず諸国を巡って修行すること(遊方)を志している。そのため、時として寺を守り留守を預かる役目は、後進の若い者たちに任せるべきである。これが三つ目の誓いである。


【お読みいただくにあたって】 本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。

 

参考WEBサイト

東嶺円慈について・滋賀県大徳寺

宗門無尽灯論(祥福) | 妙心寺

遂翁元盧 - Wikipedia