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日々の雑感

ローマの奴隷、明治の仏教者を救う:ストア哲学から「他力」へ、清沢満之の思索の旅路

ストア派の哲学を巡る旅、今回は少し趣向を変えた「番外編」をお届けします。古代ローマで花開いたストア哲学が、約1800年の時と文化の海を越え、近代日本の仏教者に大きな影響を与えたという、壮大な旅路の物語です。

その物語の主人公は二人。一人は、皇帝ネロの時代、奴隷の身にありながら精神の自由を説いたストア哲学者、エピクテトス

そしてもう一人が、明治という激動の時代に生き、不治の病と闘いながら、近代日本の仏教思想に新たな地平を切り開いた浄土真宗の大哲学者、清沢満之(きよざわ・まんし)です。東京大学で西洋哲学を修めた彼は、ストア派の教えにも深く通じていました。

一見、何の接点もなさそうな二人。しかし彼らの間には、過酷な運命と向き合う中で見出された、驚くべき魂の共鳴がありました。

 

抗い難い運命のもとで

 

彼らの人生は、自らの力ではどうにもならない「抗い難いもの」に直面するところから始まります。

エピクテトスは「奴隷」でした。その身体は主人の所有物であり、いつどこで何をされるか、自らの意志では決められません。彼はこの過酷な現実の中から、ストア哲学の核心に至ります。それは、「私たちにコントロールできること」と「できないこと」を徹底的に区別することでした。

私たちのうちにあるもの(意見、意欲、嫌悪など)は、本来的に自由だ。 私たちのうちにはないもの(身体、財産、評判など)は、弱く、隷属的で、妨げられやすい。

彼にとって、奴隷という身分や肉体的な自由は「コントロールできないこと」。しかし、その状況をどう解釈し、どう受け入れるかという「内面の自由」は、誰にも奪うことのできない「コントロールできること」でした。この峻別こそ、彼が過酷な運命から精神を解き放つための鍵だったのです。

一方、清沢満之が直面したのは「結核」という病でした。当時、不治の病とされた結核は、常に彼に死の影を落としていました。西洋哲学を貪欲に吸収する彼の類稀な知性も、病の進行を止めることはできません。この「死」という抗い難い運命を前に、清沢は深い苦悩に沈みます。

そんな彼が友人宅の本棚で見つけた一冊の本が、エピクテトスの『語録』でした。

哲学という処方箋、そして信仰の形

 

清沢は、エピクテトスの言葉の中に、自らの苦境を照らす光を見出します。それは、病というコントロール不可能な運命を嘆くのではなく、自分にコントロールできる唯一の領域、すなわち「内面(精神)」の確立にこそ専心すべきだという教えでした。清沢はエピクテトスに深く共鳴し、外的状況に左右されない内面的な平安を求める「精神主義」という思想を確立していきます。

ここに、もう一つの興味深い共通点が浮かび上がります。それは、彼らの信仰の対象です。

エピクテトスが信じたのは、人格を持ち願いを聞き入れる神ではなく、宇宙全体を貫く合理的で普遍的な法則としての「自然神(ロゴス)」でした。一方、清沢が最終的に帰依した浄土真宗の「阿弥陀仏」もまた、彼にとっては単なる人格神ではありませんでした。それは無限の光と智慧の働きそのものであり、すべてを包み込む宇宙的な真理や慈悲を意味していました。

両者ともに、人間的な欲望や都合を超えた、より大きく普遍的な存在に自らを委ねようとしていたのです。それは、自らの力ではどうにもならない運命を受け入れ、その先にある大いなる法則や働きを信じるという点で、驚くほど似通った信仰の形でした。

 

哲学の果てに:「自力」から「他力」へ

 

しかし、清沢の旅路は、エピクテトスの模倣だけでは終わりませんでした。

哲学から思索を始めた彼の「精神主義」は、当初、自らの意志と努力で内面の平安を確立しようとする、ストア派的な「自力」の側面を色濃く持っていました。しかし、病は彼の肉体を蝕み、自らの精神力だけでは到底抗うことのできない「死」という絶対的な現実が目前に迫ります。

ここで彼は、自力の限界を痛感します。どんなに強い意志も、死の事実の前には無力である――。この絶望の淵で、彼は自力で進んできた道を諦め、浄土真宗の本来の教えである「他力」へと大きく舵を切るのです。

浄土真宗には、信心に至る道を三つの誓願で示す「三願転入」という考え方があります。自力の善行を頼む「第十九願」、自力で念仏を称える「第二十願」、そして、一切の自力を捨てて阿弥陀仏の救いの働きにすべてを任せる「第十八願」。清沢は、エピクテトスの教えを足がかりに自力の世界をとことん突き詰めたからこそ、その先にある絶対他力の「第十八願」へと回心することができたのでした。

その自力格闘の凄まじさと、他力への転換の必然性は、彼が死の直前に遺した信仰告白『我が信念』(通称)の一節に克明に記されています。

人生の事に真面目でありしか間は措きて云わず、少しく真面目になり来りてからは、ドーモ人生の意義に就て研究せずには居られないことになり、其研究が、終に人生の意義は不可解あると云う所に到達して、茲に如来を信ずると云うことを惹起したのであります。信念を得るには、強ち此の如き研究を要するわけでない。からして、私が此の如き順序を経たのは偶然のことではないかと云う様な疑もありソーであるが、私の信念は、ソーではなく、此順序を経るのが必要でありたのであります。私の信念には、私が一切のことの就て、私の自力の無功なることを信ずる、と云う点があります。此自力の無功なることを信ずるには、私の智慧や思案の有り丈を尽して其頭の挙けようのない様になる、と云うことが必要である。此が甚だ骨の折れた仕事でありました。

この「甚だ骨の折れた仕事」こそ、ストア哲学を杖として自らの理性と思索の限りを尽くした、知的格闘そのものでした。その自力のすべてを尽くし、その無力さを徹見した先に、「他力」の光は射してきたのです。

「他力」とは、自分の力(自力)を頼むことを一切やめ、すべてを阿弥陀仏の救いの働きに任せきるという信仰です。それは、コントロールできることでさえ手放し、ただ大いなる慈悲に身を委ねるという境地でした。

これは一見、ストア哲学からの離脱のように見えるかもしれません。しかし、自らの力で精神を確立しようと徹底的に格闘した「自力」の極限があったからこそ、彼はその先にある「他力」の境地へと至ることができたのではないでしょうか。ストア哲学は、彼が最終的な信仰に到達するために、不可欠な知的格闘の場だったのです。


参考文献