月影

日々の雑感

【仏教の信心とは?】親鸞の教えで怒りが消えた体験|浄土真宗の悪人正機

1. 仏教でいう信心とはどういうものでしょうか? 

2. 信心を得たと言っていいのでしょうか?

この記事では、これらの疑問に対しする私感を書いてみます。

 

1. 仏教でいう信心とはどういうものでしょうか? 

 私は、ある時、人が言った言葉に腹が立った時、 「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮(こけ)の行とぞなづけたる」という親鸞の和讃を思い出したら、怒りがスーと消えました。この和讃の現代語訳は次のようです。

(生まれ持ったこの悪い本性は、どうしてもやめることができない。 その心は、まるで蛇やさそりのように、憎しみや嫉妬、偽りに満ちている。 このような心で行う善い行いさえも、煩悩という毒が混じってしまっている。 だから、そのような(自力で行う)善を、釈尊は「見せかけだけの、偽りの行い」と名付けられたのである)

 

この和讃の詳細な解説はここをクリックしてみてください

 

この和讃は、親鸞聖人の教えの根幹である「悪人正機(あくにんしょうき)」の思想を色濃く反映しています。一見すると厳しい自己批判の言葉ですが、その裏には阿弥陀仏の広大な慈悲が示されています。

 

各句の意味

 

  1. 悪性さらにやめがたし 「悪性」とは、犯罪者などの特定の悪人を指すのではなく、人間が生まれながらに持っている自己中心的な性質、つまり煩悩(ぼんのう)のことです。仏教的な視点から見れば、誰もがこの「悪性」を持っており、自分の力でそれを完全になくすことは極めて困難である、と告白されています。

  2. こころは蛇蝎のごとくなり 「蛇蝎(じゃかつ)」とは蛇とさそりのことで、忌み嫌われるものの象徴です。自分の心が、他者への憎しみ、嫉妬、怒り、嘘偽りといった醜い感情で満ちていることを、蛇やさそりにたとえて表現されています。これは、聖人自身の内面に対する深い洞察から生まれた言葉です。

  3. 修善も雑毒なるゆゑに 「修善」とは、善い行いを実践することです。しかし、上記のような蛇蝎の心(煩悩)を持ったまま善い行いをしようとしても、そこには「よく見られたい」「褒められたい」といった自己満足や見返りを求める心(=毒)が混じってしまう(雑毒)とされています。純粋な善行は、私たち凡夫には不可能であるということです。

  4. 虚仮の行とぞなづけたる 「虚仮(こけ)」とは、虚偽、見せかけ、中身がない、という意味です。煩悩の毒が混じった善い行いは、結局のところ、真実のない「見せかけの行い」に過ぎないと、お釈迦様が説かれた、と親鸞聖人は受け止めておられます。

 

この和讃が示すもの

 

この和讃は、単なる自己卑下や絶望を説いているわけではありません。

「自分の力(自力)では、善い行いを積み重ねて悟りを開くことなど、到底できない存在なのだ」

ということを徹底的に明らかにすることで、**「だからこそ、そのような不完全な私たちをそのままの姿で救おうと誓われた阿弥陀仏の力(他力)に、すべてを任せるしかないのだ」**という結論へと導くためのものです。

自分の無力さを知らされた者(悪人)こそが、阿弥陀仏の救いの本当の目当て(正機)である。これが「悪人正機」の教えの核心です。この厳しい自己反省は、阿弥陀仏の絶対的な慈悲に出会うための、いわば入り口となっているのです。

これは、親鸞聖人の教えが、単なる知識として頭にあるのではなく、自分の心の中で生きて働き、まさにその瞬間に働いた体験だと感じています。


一体、心の中で何が起こったのか。これはいくつかの側面から説明することができます。
i). 視点の劇的な転換:「相手が悪い」から「私も同じだ」へ
腹が立っている時、私たちの心は完全に「相手志向」になっています。「あの人が、あんな酷いことを言った(した)。だから私が怒るのは当然だ!」と、怒りの原因と正当性をすべて相手に求めています。意識は100%、外に向いている状態です。


しかし、そこで「悪性常に冷めやらず こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり」という和讃を思い出した瞬間、視点が180度転換します。意識が、外側の「相手」から、内側の「自分」へと一気に引き戻されるのです。


「相手が蛇やサソリ(蛇蝎)のように酷い」と思っていた視点が、「いや、この私自身の心が、まさに蛇やサソリのようではなかったか」という、自己への深い気づきに切り替わります。
相手を裁いていた自分が、実は同じ(あるいはそれ以上の)毒を心に飼っていたことに気づかされる。この劇的な視点の転換が、怒りの土台を崩します。


ii). 怒りの「主語」が消える感覚
怒りとは、多くの場合「傷つけられた“私”」という、肥大化した自我(エゴ)を守るための防衛反応です。「私」という主語が、怒りのエネルギーの源になっています。


ところが、「私の心は蛇蝎のごとし」と認めた瞬間、その守るべき「正しくて立派な“私”」という主語が、ガラガラと崩れ落ちます。
「そもそも、そんなに立派で、守らなければならないような“私”など、どこにもいなかった。蛇やサソリのような醜い心を持った存在だったのだ」と。守るべき「立派な主語」がいなくなれば、怒りの炎は燃え続けるための薪を失い、スーッと消えていくのです。


iii). 親鸞聖人という「連れ」の発見
怒りや憎しみは、私たちを孤独にします。しかし、親鸞聖人の言葉を思い出した時、「ああ、あの偉大な親鸞聖人ですら、ご自身のことを“蛇蝎のようだ”と言っていたのか。ならば、今こうして蛇蝎のような心で怒っている私も、一人ぼっちではなかったのだ」という、不思議な安堵感と連帯感が生まれます。これを**「お連れがいる」**という感覚と表現することがあります。


iv). 救いの光に照らされる(他力の働き)
そして最も重要なのが、「他力」の働きです。
親鸞聖人の教えに触れてきた私たちにとって、この和讃は単なる自己否定の言葉ではありません。その言葉の裏には、**「そんな蛇蝎のような心を持った者こそ、阿弥陀仏が真っ先に救おうとされている、救いの目当てそのものである」**という、巨大な肯定の光が常にセットになっています。


つまり、私たちの心の中では、瞬時に以下のようなプロセスが起こったのです。
* 怒り発生:「あの人が許せない!」
* 和讃想起:「待てよ、私の心こそ蛇蝎のようだ…」
* 他力回想:「…そして、阿弥陀仏は、**“そんなあなただからこそ、必ず救う”**と誓ってくださっているんだった!」


自分のどうしようもない醜さ(悪性・蛇蝎)に気づくことと、そんな自分を丸ごと抱きしめてくださる仏の慈悲(摂取不捨)に気づくことは、表裏一体です。自分の闇が深ければ深いほど、それを照らす仏の光のありがたさが身に沁みるのです。
結論として、その体験は、単なる心理的な怒りの鎮静法ではありません。


それは、私たちの心に住み着き始めた「南無阿弥陀仏」という仏様の言葉(和讃)が、私たちの現実の悩み(怒り)を縁として働きだし、私たちを瞬時に「自力」の裁きの世界から、「他力」の許しの世界へと転換させてくださった、生きた「信心」の働きそのものと言えるでしょう。

 

2. 信心を得たと言っていいのでしょうか?

最初に、浄土真宗の教えの、非常に繊細で大切な前提は、以下のようなものです。
信心とは、他人が「はい、あなたは得ました」と認定するものでもなければ、ご自身で「よし、これで得たぞ」と所有物のように確認し、安心するためのものでもない、とされています。

 

浄土真宗では、阿弥陀仏からいただく信心の内容を**「二種深信(にしゅじんしん)」**という二つの側面から説明します。
* 機の深信(きのじんしん): 自分はどこまでいっても罪深く、どうしようもない迷いの存在である(蛇蝎のごとし)と、心の底から深く信じる(知らされる)こと。
* 法の深信(ほうのじんしん): そんな自分だからこそ、阿弥陀仏は無条件で必ず救ってくださるのだと、仏様の誓いの力を深く信じる(おまかせする)こと。

 

私たちの体験を振り返ってみると次のように言えるでしょう。
腹を立てた時、「自分の心こそ蛇蝎のようだ」と気づかされたのは、まさに「機の深信」の姿です。そして、その気づきと同時に怒りが消え、安らぎが訪れたのは、その背景に「そんな私を救うという仏様の誓い(法)」への信頼、つまり「法の深信」が働いていたからです。


この二つは常に一体です。自分のどうしようもなさに気づかされることと、仏のありがたさに気づかされることは、同時に起こるのです。
その意味で、私たちの体験は、教えが頭の理解(知識)から、ご自身の心の事実(智慧)へと変わった、何ものにも代えがたい出来事です。それは、私たちの中から湧き出たというより、仏様の側からの確かな働きかけがあった、と味わうべきものです。


なぜ「得た」と考えてはいけないのか?
では、なぜ「はい、あなたは信心を得ました」と断言したり、ご自身でそう考えたりすることに、慎重になる必要があるのでしょうか。
それは、「信心を得た」と自分で自分の状態を“所有”し、“認定”した瞬間、その心が新たな「自力のはからい」になってしまうからです。


* 「私は信心を得た人間だ」という、新しい形の「プライド(慢心)」が生まれる危険。
* 「信心を得たのだから、もう大丈夫だ」と、仏様に問い続ける姿勢を失ってしまう危険。
* 「信心を得たからには、こうあるべきだ」と、自分に新しいハードルを課してしまう危険。


これらはすべて、せっかくの「いただきもの」である信心を、自分の「手柄」や「所有物」にすり替えてしまう行為です。親鸞聖人が生涯をかけて、最も厳しく戒めたのが、この「自力のはからい」でした。


では、どう考えれば良いのか
信心とは、一度手に入れたら終わりの「資格証明書」ではありません。
むしろ、呼吸のように、常に仏様からいただき続ける、生きた働きそのものと味わう方が、教えに近いでしょう。


ですから、一番大切なのは、こうです。
**「『私は信心を得たのだろうか?』と、問い続ける心こそが尊い」**のです。
なぜなら、その問いを持ち続ける限り、私たちは常に仏様の前に立ち、自分の状態を裁くのではなく、仏様におまかせする姿勢を保ち続けることができるからです。
結論として、こう考えてみてはいかがでしょうか。


「得たか、得ていないか」という判断は、すべて阿弥陀仏様ご自身におまかせしてしまう。
私たちにできるのは、ただ、あの時、怒りの炎の中から救い出してくださった、不思議でありがたい「事実」を繰り返し思い返し、「ああ、ありがたいことだったな。これもまた、仏様のはからいだったのだな」と、その都度、その出来事を喜び、感謝していくことです。


その感謝と喜びの繰り返しこそが、信心をいただいた人の、最も自然な姿なのです。
あの体験は、間違いなく仏様からの尊い贈り物です。それを「得たぞ」と握りしめるのではなく、ただ「ありがとうございました」と、手を合わせていただく。それで、十分すぎるほどなのです。